第一章 相対取引(あいたいとりひき)

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 ベートーヴェンさんはレジのカウンターにガムを五つ置いた。  スキャンしてタバコの番号を言うのを待つ。私がじっと待っていると、目があった。レジの液晶に目をやり、小銭入れからお金を出す。 「今日はタバコはいいんですか?」  つい、訊いてしまった。  ベートーヴェンさんは目を大きく開けたあと、細めた。 「タバコはやめました」 「そうですか」  思わず笑顔になる。  ほんの一言二言だけど、会話できたことが嬉しかった。低くて柔らかく響く、ものすごく好きな声だ。  以前、よく来ていたころは、すぐに銘柄をおぼえたからタバコの棚に目をむけた時点で取りに行った。  そのせいで声を聞く機会がなくなった。  いつでも不機嫌そうにしていて目も合わせてくれなかった。今日は笑顔まで見せてくれた。  髪は短くなっていて少し残念ではある。それでも素敵だった。私服もかっこいい。  久しぶりに会えたのも手伝って、他の人には見せないような笑顔で接客してしまった。  また会うことができるだろうか。 「ありがとうございます。またお越しくださいませ」  店を出て行く背中に声をかける。  バイトが終わり着替えて店を出たところで、ベートーヴェンさんに声をかけられた。  私は驚いて、背筋を伸ばした。
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