第一章 相対取引(あいたいとりひき)

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 ベートーヴェンさんは店の前に貼り出されている求人ポスターを指さして、「君、時給八百五十円なんだろ」といった。 「はあ」  私は、なんと返したらいいのかわからなかった。  ベートーヴェンさんは私の目の前に手のひらを出した。  大きな手に驚いて、身を引いた。 「その五倍出すから、絵のモデルになってくれない?」  私は動けずに、手を見ていた。  突然、目の前のものが手から顔にかわった。息をのみこむ。 「僕はひとみやすひこ、君は、ささはら何?」 「り、りつです」 「りつ?」 「旋律のりつ」  ベートーヴェンさんの名字がひとみだなんて、似合わない。 「お待ちしてますので、またお越しくださいね」  頭を下げて、立ち去ろうとすると、腕をつかまれた。 「さっきのこたえ、まだ聞いてないよ」  私は首をかしげた。 「君は大学生?」 「そうです」 「じゃあ、講義の時間と睡眠時間以外全部買うから、絵のモデルになって」  よくわからなくて、笑顔をかえす。 「友達と遊びたいときは、前もって申請してくれればいいよ」 「ひょっとして本気で言ってますか?」 「冗談でこんなこと言うわけないでしょうが」 「私、無理です」  きっと、あやしいバイトだと思った。  せっかくお話ができて嬉しかったのに残念だった。
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