第一章 相対取引(あいたいとりひき)

5/28
653人が本棚に入れています
本棚に追加
/241ページ
 勤めているコンビニの前で、男の人と立ち話をするのもよくないので、はやく離れたかった。  雑誌コーナーで立ち読みをしながら、常連さんがこちらをちらちら見ていた。  憧れていた人に久しぶりで会えて、喜んだのもつかの間の急降下で、朝から疲れてしまった。  とにかく店を離れようと思った時、ひとみさんに質問された。 「今日の講義は何時から?」 「昼からですけど……」  ひとみさんは、にっこりとして、私の手をとった。 「じゃあ、どっかでゆっくり話そうか」  握られた手を引いてみたけれど、放してくれない。 「あの、困ります。本当にそういうお店無理ですから」 「喫茶店に入ろうと思ったんだけど、公園は寒いから、うちに来る?」  話がかみ合っていない。このまま家に連れて行かれるのは本当に困る。 「き、喫茶店で結構です」 「じゃあ行こうか」  ひとみさんは大通りを北へ向かって歩き始めた。 「ねえ、いくつ?」  そう言って振り向く。 「二十歳です」  いつも眉根を寄せていたイメージなのに、今日のひとみさんは常に笑顔だった。  国道は緩い坂道になっていて、ひとみさんの早足について行くのが大変だった。  ひとみさんは私の手袋ごしに、がっちりと手を握っている。 「二十歳か」  私は頷く。 「二十歳かあ」  ひとみさんはもう一度言う。 「いいときだね。君の貴重な時間をもらうんだから、もう少し出そうか、時給?」  私は目を見開いたまま頭を横に振った。 「それはお断りします。私そういう経験ないので無理です」 「経験なんて必要ないよ。君はじっとしていればいいんだからさ」  自分でも耳まで赤くなったのがわかった。 「あっ大丈夫、服は着ておいてくれていいから」 「それでも無理です」 「まあいいや、とにかくお茶でも飲もう」  ひとみさんの笑顔の背景がそれはそれは澄んだ青空で、私は自分が引き込まれそうになっている世界のことも一瞬忘れ、素敵だなと思ってしまった。
/241ページ

最初のコメントを投稿しよう!