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第一章 相対取引(あいたいとりひき)
夜明け前。
一日の最低気温はきっとこの時間帯に観測される。私は布団から抜け出しバイトへ行く準備を始める。
バイト中は上から制服を着るから、中は厚着できない。ダウンジャケットを着て、マフラーを巻きつけ手袋をはめ 、家を出た。
まだ、起きている人も少ない。
街灯に照らされた息が真っ白で、ため息を吐くとさらに伸びた。
頬が痛くて手袋の手のひらで覆い隠す。モールの肌触りが心地よかった。
今は、耳が隠れるように髪をおろしている。
時間に余裕はあるけれど、小走りで住宅街の細い道を曲がり大通りへと向かう。
バイト先のコンビニは強い光を放っていた。自己主張が激しすぎて痛々しい。明るくなればすぐ目立たなくなる。
信号待ちをしながら、仕事の段取りを考える。
肉まんの解凍を始めて届いたお弁当類を棚に並べる。おでんの準備もしなくてはいけない。
今日の相方は誰だろう。昨日シフト表を見るのを忘れていた。
「いらっしゃいませ。ありがとうございます。またお越しくださいませ」
小さな声で言ってみる。
どのお客様にもそう声をかけるが、本当にまた来てほしいのはあの人だけだ。
だけど、ここ数ヶ月姿をみていない。
名前も知らなければ、声も思い出せない。知っているのは、いつも決まって買っていくタバコの銘柄とガムの種類だけ。あの人はいつでも眉根を寄せて気むずかしそうだった。長めの髪を暴れるようにアレンジしているから、ベートーヴェンさんとあだ名をつけていた。スーツを着ていた。サラリーマンだと思う。転勤でもしたのだろうか。もう会えないのかもしれない。
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