2章 来訪初日

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 気を紛らわせるために、どこかで聞いた覚えのあることを言ってみる。 「ああ、百穴を見て信玄が思いついたというあれか。それは江戸時代の創作だったらしいぞ」 「そうなんですか」 「冷静に考えてみろ、こんなに大きな穴を掘って、ばれないわけがないだろう。音や振動で分かる」 「確かに」 「太平洋戦争の折に、軍需工場として掘られたときも、落盤事故が続いて難航しているうちに終戦となったそうだからな」  なるほどと思いながら、穴の奥を見て、冷たさを感じて首をすくめた。 「どうした?」 「なんか、寒いですよね、ここ」  ああ、と紗川が頷いた。 「表は桜が咲いているが、ここは年間を通して温度の変化が少ないからな。一年を通して殆ど一定――15度くらいだと聞いたことがある」 「え。今日の最高気温って、20度だった気がするんですけど」  それは寒いはずだを想っていると「トンネル貯蔵、と言うのを聞いたことがないか?」と尋ねられた。 「トンネル貯蔵? 何ですか、それ」  さすがに高校生は知らないか、と言ってから紗川は説明を始めた。 「焼酎の製造法の一つで、長期低温で寝かせる貯蔵法だ。できた直後は水分子とアルコール分子がバラバラなんだが、ゆっくり時間をかけて結合させることにより、まろやかな味わいを生み出す」 「へえ……」 「酒には興味がなさそうだな。だがこれはどうだ? 君の好きなププリエのシュトーレンは、百穴で寝かせているらしいぞ」 「あ、ププリエって東松山に本店があるんですよね。俺ずっと行きたかったんですよ」  三枝の家は和菓子屋だが、洋菓子への造詣も深めておきたい。  と言うのは建前で、本音は美味しいものが食べたいだけだ。
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