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「あの……それを先生――うちの紗川はご存じでしょうか?」
ここに、上司はいない。
三枝だけだ。
上司である紗川がいない以上、三枝がしっかりと依頼人に対応する必要がある。探偵と助手が「仕事」として赴くのであれば、それは事件現場に他ならないからだ。
仕事である以上、役割を果たすことが求められる。
探偵助手として聞いてしまったのであれば、あとで上司に報告しなければならない。
しかし、聞く前であれば、直接上司に話してもらえるように働きかけるのが「助手」としての三枝に求められる仕事だろう。
百穴のアナウンスに混ざって、遠くから作業をしている音がする。作業音とそれにかかわる声が、かすかではあるが聞こえてくる。
オペラ関係者は皆、作業現場にいる。オペラ会場があるのは、観光場所である百穴ではない。
にもかかわらず、紗川を待つなら百穴の売店でと言ったのは翠だ。
(あ……ひょっとして、この話をしたかったのかな。それで周りに聞こえないところに移動したとか?)
おやつ時も過ぎてしまうと、人はまばらだった。売店の店先で座って話をしていても、誰かに聞かれる心配はないだろう。
「ふふ、言葉遣いには気をつけていらっしゃるようですね」
「え?」
「うちの紗川、と呼びなおされたのは、わたくしが『依頼主』だから。違いますか?」
素直にうなずいた。
紗川の従姉、と言う立場で出会っていたのであれば、このような言い方はしない。
「でもね、つむぎさん。わたくしは依頼主である前に、きよあきさんの従姉ですから、普段通り『先生』と呼んでいただいて、構いません」
「え、いいんですか? ありがとうございます」
依頼主であり従姉でもある翠相手にどう対応すれば良いのか、戸惑っていたところだ。
ネットで学んだビジネスマナーは、まだまだ板につかない。許してもらえるのであれば、これほどありがたいことはない。
「そんなに気を張らずに……ほら、おばあちゃんとお話をしている気持でリラックスなさって?」
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