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翠の歌声に気を取られ、どのような場所だったか、殆ど覚えていない。記憶力のいい三枝にしては珍しい失態だ。
「真奈美さんは事故死と言われています。しかし同時に、自殺ではないかとも噂されています」
「でも翠さんは殺されたと考えているって……」
「ええ。わたくしが第一発見者です。だからこそ殺人と確信しています」
三枝は驚いて翠を見た。
小さな少女のように見えた翠が、はじめて年相応の大人の女の顔を見せたような気がした。
「あの子は、わたくしの目の前で落ちたのです。明らかに、事故の様相でした」
言っていることが分からない。
三枝は混乱してきた。
「ちょっと待ってください。この死んだ常陸真奈美さんは、翠さんの目の前で『落ちた』んですか?」
「ええ。明らかに『事故』と思える落ち方でした」
「なのに『事故』ではなくて『殺人』?」
翠は頷くと、舞台のあった方角を指さした。
「ここからでは見えませんが、足場が組んであったのはご存知でしょう。劇団菜摘には元体操選手でサーカスの団員でもあった方がいらっしゃるので、空中ブランコをパフォーマンスに取り入れるのです」
「空中ブランコ、ですか」
「ええ」
「俺、オペラってよく知らないんですけど、こういうの、よくあることなんですか?」
「空中ブランコとオペラの組み合わせは、わたくしは経験したことがありません。ただ、様々な仕掛けを施した近代オペラが増えていることは事実です。ワイヤーでつるされての演出やアニメーションを追加した演出などもあります」
なるほどと思い、頷くと、翠は憂いを帯びた瞳で微笑んだ。
「面白いと思いました。どんな演出になるのか、楽しみにしておりました。けれど、このセットがいけなかったのかもしれません。真奈美さんが落ちたのは、ブランコのために作られた飛び降り台です」
「……」
「当日は安全ネットを設置する予定でしたが、真奈美さんが亡くなった当日は、ネットは設置される前でした。もしもネットが設置されていたら、あの子は助かったかもしれません」
「明らかに事故だったとのことですが、どんな風に落ちたんですか?」
「あの日のことを、初めからお話いたします」
翠は静かに話し始めた。
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