1章 容疑者たち

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「そうだね。確かに、紗川さんが言う通り、派手さはない。でも、脚色は可能なんじゃないかい? どうだろう? 手合わせとは別に、うちの舞台に立たないか」  常陸忠雄は地元の中学校の教頭としての長い教員生活を終えたばかりだ。  生徒に申し伝え従わせる側だっただけあり、誘っていながらも、常陸の中では決定事項のように思われる。殺陣を見せてくれと言った時と同様に強引だ。 「勘弁してください、常陸さん。人前でやるのは祭の時だけで十分です」 「何を言ってるんだ。すごいじゃないか。高梨君は元オリンピック候補で、サーカスにもいた。今は殺陣の演技でテレビにも出ているんだぞ。なのに全く引けを取らないどころか、圧勝じゃないか」 「たまたま、うまく型にはまっただけですよ」 「紗川さんは姿勢もいいし背も高い。これだけ見映えするんだ、舞台に立たないなんてもったいない。――なあ、みんなもそう思うよな?」 「そうですね。すごかったです」  真っ先に賛同してきたのは黒ぶちめがねの小倉基樹だ。  大学生の基樹は、ほっそりした体つきに似合わない、良く響く声をしている。バリトンの低い声を初めて聴いた時、体格とのギャップに三枝は驚いた。 「どうですか、紗川さん。これを機に、我々、劇団菜摘のメンバーになりませんか?」  基樹の発言に、若い女性の歓声が上がる。 「それいい! うちは歌う人も歌わない人もいる劇団だから、戦闘シーン専門ってことでもいいしね。もし舞台に立つのがダメでも、指導で来てくれるのもアリだと思う」  頭の上のおだんごが揺れるほど激しくうなずきながら、黒沼ルリカが賛同してきた。  劇団菜摘は、一つのジャンルにこだわらず、様々な舞台に取り組んでいる。  代表の常陸忠雄が演劇を、妻の愛子がクラシック音楽を専門としていることで、幅広く『舞台』を作ることができる。素人の集まりであることを逆手に、形式にとらわれず、新しいスタイルを模索できるのが劇団菜摘の強みだ。  古典のときもあれば、現代喜劇を演じることもある。演劇のこともあればオペレッタやミュージカルのこともあるそうだ。  今回は、埼玉県の東松山市に伝わる悲恋の物語をオペラ形式で行う。  基樹とルリカはその舞台の主人公の夫婦役だ。
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