チェスターフィールド

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チェスターフィールド

 「オーケイ、カット!」  しずかな撮影所に監督のどら声がひびきわたると、ジュディは顔をしかめて、けほけほと咳を繰り返した。タバコなんて、生まれて初めて吸った。南部の田舎では、農作業をする男しか吸わない。咳のはずみでつい、口元をおおったら白の手袋にべっとりと紅がついてしまった。──ああ、とジュディはやるせなさに深く息をつく。顔にふたをするよう厚塗りされた化粧もまた、生まれて初めての経験だ。  ヘアースプレーでかためられた髪も、ゴツい金のイヤリングも、ミンクの毛皮のコートも、何もかも、無理に着せられた重たい鎧のように感じられ、身体をがんじがらめにする。けれど、ジュディはここで生きていくしかない。働き手にもならない、かといって親のすすめる相手との結婚も拒む農家の三女は、ごくつぶしの役立たずなのだから。  都会にでたもののあてはなく、最低賃金の雇われウェイトレスをしていたジュディに舞い込んだ千載一遇のチャンスだ。──でも、と一抹の不安がジュディの胸をさえぎる──ボブが、これをみたら、はしたない女だと思うかしら。不安にかられ、親指の爪を噛む。口紅が指先につく。  「まだその癖はなおらないのかい、ジュディ」  今は、きっと、この街のどこかで大学生をしているはずの優しい幼なじみの声が聞こえた気がしてはっと口から爪をはなす。あたりを見回しても、赤毛の背高ノッポの姿は見あたらない。ホッとしたとような、寂しいような、どちらもまじった不思議な気持ちがこみあげる。しかし、感慨に浸るまもなく撮影は進む。ジュディの名も呼ばれた。ここは、退屈で、そして懐かしいあの頃を過ごした故郷ではない。いつまでも感傷を引きずっているわけにはいかないのだ。image=510010083.jpg
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