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 だが、一段下になる隣家のベランダが、こちらの一階の窓と同じ高さにあった。そこからは、我が家の室内が丸見えである。だから、磨り硝子入りの窓はあまり開けたことがなかった。  今も様子を見ながらほんの少しだけ開ける。  口の中の冷や汗らしき唾液が収まると、恐る恐る身体を起こした。立つとまだクラクラするが、四つん這いでならなんとか移動できる。  冷蔵庫まで這ってゆき、ラップに包んで冷凍された白ご飯を発掘する。レンジで解凍。市販の茶漬け海苔と水道水をかけて、ゆっくりと胃に流し込んだ。  意外とすんなり、俺の胃はそれを受け入れた。腹にものが入ると、貧血は大幅に改善される。食べものの持つ力は偉大だ。  流しに寄りかかり、台所の換気扇を回す。プロペラが作る気流に乗って、細い隙間から外の空気が流れ込んできた。南側の窓も開けて、風を通した。  家の南側には、隣地の敷地がさらに高くそびえている。猫の額より狭い庭の先はコンクリートの擁壁で、路地状敷地の奥にある我が家には、道路からの日も滅多に差し込むことがなかった。  午後のわずかな時間だけ、通路を抜けて日が土間に届く。キッチンの先の掃き出し窓を通して、谷底を思わせる狭い庭を見た。  透明な硝子の向こうに、薄紫色の花が貴重な日を浴びて咲いていた。  ペンキの剥げた木製の脚が支えるプラスチックの波板屋根、その下で、ハンギングバスケットに入ったサフィニアが風と光にふわふわ揺れる。サフィニアは、少ない日照時間でも生き延びる強い花だ。貪欲に日差しを求めて茎を伸ばす。伸びすぎてだらりと垂れ下がった茎の先に、薄紫の花をいくつもいくつも付けていた。  丈夫な花だなと、思った。  俺たちの赤ん坊も、このくらい丈夫だったらよかったのに。と。
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