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 サフィニアをそこに吊るしたのは、瑛美(えみ)だ。夏の初め、もともと柱に打ち付けられていた釘に、プラスチックの弦をうまい具合に引っかけて。  ひびの入ったコンクリートの土間に立ち、高い位置に手を伸ばしてバスケットを吊るしていた。 『このくらいの高さなら、日も当たるね』  ニコリと笑う瑛美の顔を、俺は黙って見ていた。化粧をしてないと、そばかすが目立つ。そんなことを考えながら。  確かにサフィニアには日が当たっている。午後のわずかな時間だけ。  細い路地から差し込む日差しを浴びて、じっと咲いている。その花を、俺はただ眺めていた。  それからなんとなく、掃き出し窓の網戸を開けて、土間に転がるサンダルの片方に足を載せて外に出た。手を伸ばして咲き終わった花を摘み取る。もう一方のサンダルを柱の影から引き寄せ、外水栓の脇に転がるじょうろを拾って水を満たす。  高い場所にあるバスケットに、手を伸ばして水をやった。そうしながら、どうして俺は今ごろこんなことをしているのだろうと考えた。  どうして……。  こんな簡単な、なんの手間でもないことを、瑛美がいた時にはしなかったのだろう。  花から目を逸らすのと一緒に、その考えからも心を遠ざける。考えても仕方がない。瑛美は自分から出て行ったのだ。  ごめんね、と言いながら、笑顔で出て行った。  だからもう、いいはずだ。 『(たく)ちゃん、ごめんね』  小柄な瑛美が、その日はもっと小さく見えた。笑っているのに、なぜだか悲しそうに見えた。  ごめんね、と言う瑛美の言葉が何に対してのものなのか理解できないまま、俺はただ頷いていた。  たいした荷物も持たない瑛美は、一人で出て行った。たいした荷物も持たないまま結婚したのだと、出ていく瑛美の荷物を見て、気がついた。こんな日が来ることを初めから予感していたのだろうかと、思った。
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