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バッグの底から携帯を取り出した。血の跡は拭き取ったので、きれいに落ちている。電源を入れた。
何通かメールが来ている。着信の通知もある。一部は、奏ちゃんだと思う。
私は内容を確認せずポケットにしまった。
奏ちゃんは何も訊いてこない。
ほとんど会話もないまま、奏ちゃんの最寄り駅についた。数分歩けばたどり着く。
前に、トオルと奏ちゃんがすれ違ったバス停の前を通り過ぎる。ポケットの中で、スマホが震え始めた。母かと思って確認すると、トオルだった。思わず、立ち止まって辺りを見回す。
奏ちゃんが、立ち止まって振り向いた。
「どうしたん?」
私は、まだ震えているスマホをポケットに隠した。
「何時かなと思って」
歩き出すとすぐに、震えは止まった。トオルが、近くにいるんじゃないかと思う。
奏ちゃんの部屋について最初に、この間まで私が使っていた部屋に荷物を入れた。
「今夜、食べたいもんある?」
何も思いつかずに頭を横に振る。
「食欲、ないんか?」
また心配をかけてしまう。 奏ちゃんは、扉の脇に立ったまま入っては来ない。
距離を作っているのは、私なのか、奏ちゃんなのか。
私はただ、頭を横にふる。奏ちゃんは私をじっと見た後で、口をかたく結んだ。そしてため息をつく。
「俺は、どうしたらええんや?」
私は、奏ちゃんに近寄った。指先でそっと腕に触れる。それが精一杯だった。
奏ちゃんを見上げた。
「りこは、怖ないんか?」
何が? と問いかけたくて開きかけた唇に、奏ちゃんの指先が触れた。
「もどれへんようになるで」
もどれなくなる……。
それは、平気だ。もどりたい場所なんて、ない。私は、返事をするかわりに、そっと目を閉じる。
奏ちゃんの手が、頬に触れた。
息づかいが近づいてきて、唇が重なった。
(了)
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