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こんな突拍子もないことを、彼一人で考えつくはずがない。それに誰もがいま注目している逸材を、すんなりと事務所が手放したりもしないだろう。
あの背の高い、緑目の男――隙のない食えない男だ。けれどリュウの不利益になるようなことは、きっとしないだろう。
いままで以上の儲けを期待できると踏んで、独立を後押ししたに違いないからだ。しかし彼が、ほかのことに気を取られることなく、ピアノに専念できるのならばそれもいいかもしれない。
「宏武の傍でピアノを弾いていたい。傍にいさせて」
こんなに周到に外堀を埋められては、頷くしかほかない。もう彼はここまで来てしまったのだから、突き返すわけにもいかないだろう。
それに突き返す理由も見当たらない。彼がピアノをやめずに傍にいてくれるというのだ。
それだけではなく、自分に一緒にいるための翼を与えてくれた。これからはまっすぐに彼を愛していける。腕を伸ばして彼の背中を強く抱きしめた。
しとしと心に降り続けていた雨が、ようやくやんだ。
ポツポツと音を響かせていた雨粒は、もうすぐ消えてなくなるだろう。
その頃にはきっと、自分の中にある曇りは跡形もなく消え去り、澄み渡る青空のような清々しさに、包まれているはずだ。
ずいぶんと遠回りをした気がする。けれどその回り道も、お互いの存在を確かめ合うためには、必要な時間だったのかもしれない。
離れた分だけ愛おしさが募った。自分には彼しかいないとそう思えた。だからもう後ろは振り返らない。
「リュウ、愛してる。あんたの傍で生きていくよ」
ようやく紡げた言葉に頬を熱くする自分を、リュウは満面の笑みを浮かべて抱きしめる。
地面に放り出された、二本の傘が雨粒に濡らされ、雨の調べを奏でていた。
雨の調べ/end
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