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「さあ、お母さん、彩さん、今日はもう……」
片桐は彩の前に立つ。微笑んでいる。右肩に手を回すと、多少強引に彩を立たせようとしていた。先程までは目を逸らしていたのに、今はお構いなしだ。
ぴちゃ、という不快な音が鳴る。スカートの下からだ。しかし彩に恥ずかしいと思う気持ちなど既にない。見てはいけないものを見てしまった。その思いでいっぱいだった。
「さあ、彩さん、もう……」
再度促した。彩の腕を掴む片桐の手に力がこもっている。細腕とともに制服の袖が引っ張られる。伸びた肩口から彩の細い鎖骨とブラジャーの紐がちらっと見えた。それでも片桐は力を緩めなかった。その指は薄い防護服越しに彩の腕に食い込んでいる。熱い。掴まれた所が熱い。体温とともに感情までもが流れ込んでくるようだった。彩は気付いていた。片桐が焦っている事に。
言われるがままに彩は立ち上がる。片桐が真正面にいるので向こうは見えない。横たわる父親に別れを告げる事なく背を向けた。そしてゆっくりと部屋の外に歩き出した。逆らわない。
ふと顔を上げると、お母さんの後ろ姿が見えた。別の医師の付き添いによって、彩より先に室外に連れ出されている。
「先生……」
小さく呟く。それだけ言うと彩はうつむいた。そして大きく息を吸い込む。直後に唇を噛み締める。体が小刻みに震えていた。片桐は心配そうに「どうしましたか?」と返答する。彩の表情を覗き込むようにして左側面に寄ってきた。その瞬間だった。
「嫌だっ、ばっかじゃないの、こんなの!」
彩の両腕が片桐の胸元を激しく突き飛ばした。堅い靴底が床を打ち、大きな音を立てる。彼は大きくよろめいていた。同時に彩は反転する。入り口をとって返す。
「駄目だ! 君ィィっ!」
突然の事に反応の遅れた別の医師が、怒気の含んだ声で恫喝する。取り押さえようと動き出す。しかし遅かった。彩はつんのめるように跳躍していた。硝子壁にぶち当たりそうな勢いで止まる。そして横たわる父親を凝視する。唾を呑み込む。息が詰まる。
「炸裂するぞっ、その娘を早く連れ出せ!」
硝子窓を隔てた向こう側にいる男の叫び声と同時だった。まるで死人のように、ぴくりとも動かなかった父親が激しく震え出していた。
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