哀しみ

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哀しみ

「今も忘れない。彼女、素敵!って言ってくれて、……それから、ちゃぶ台に着いて読み始めた。私は、小説を読んでくれている彼女の姿が愛おしくて、お茶を淹れる以外はじっと彼女を見てた。そして、暫くすると彼女は急に眠気に襲われたかのように原稿を倒してちゃぶ台に顔を伏せた。驚いて声を掛けるが応えない。肩を揺すってみるが反応もなく、そして気づいた。彼女、もう息をしていなかった。」 「え?彼女さんは亡くなられたんですか?」  彼はゆっくりと頷き、 「私のせいだ。」と言って顔を伏せた。 「柴田さんのせいって、それはないでしょう。でもどうして、」  そして、彼は声を震わせながら言った。 「人が死んだのは、その一度きりじゃないんだ。」  私は目を見開いて訊いた。 「どういう事ですか?」 「私の短編を読むと人が死ぬんだ。」 「そんなまさか、あり得ない。」  彼は、私に赤くなった目を向けて話を続けた。 「由紀子が亡くなってから、私は小説を書くのをやめて、哀しみを紛らす為に建設業界で必死に働いた。しかし、夜になると、由紀子の可憐な《素敵!》と言う声が聞こえてくるんだよ。だから、夜の街の喧騒で誤魔化そうと出掛けて深酒をする。……そうしてるうち、飲み屋の女と仲良くなったんだが、ある日、その女が私の部屋に行きたいって言うもんだから、酔ったノリで部屋に入れた。普通、自分の部屋に女を連れ込んどいて、男が何もしないで寝てしまうなんて事は無いだろう?でも、私は酔い潰れて眠ってしまったんだ。そして、目が覚めたら、女が正座のままちゃぶ台に伏せていてた。同じ光景に血の気が引いた。《おい》、と肩を揺すると、力無く横を向いた彼女の目蓋から、精気を失った目がむき出しになっていた。その時、彼女の下敷きになっていたのがやはり、短編小説の原稿だった。女の遠い目は、私を責めているように思えた。由紀子が死んだ時、私も後を追えば良かったんだ。」  彼は自分の両膝に手を当て下を向いた。
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