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木は木だった。僕が名前を知っていようがいまいがおかまいなくそこにあって、春には芽を出して葉を生やし、秋になれば実をつけた。実は熟れて、やがて木から離れる。子供の頃、秋の日に森で遊んでいると、そこかしこでぼとぼとと実の落ちる音がした。それは僕の心をひっそりと落ち着かせてくれた。僕がいてもいなくても、木の実は落ちる。そう思うと安らかな気持ちになった。ぼと、ぼと、という音を聞きながら安心して遊んだ。十歳になった秋、このままこの森に倒れてたとえ呼吸を止めてしまっても木の実は落ちるのだ、と思ったら解放感が足下からじわじわと這い上ってきた。僕は自由だ、と思った。けれども、ここで朽ち果ててしまうこともできる自由の背後から、寒さや空腹がしのび寄る。するとたちまち生身の不自由さを思い出すのだった。
中高と吹奏楽、大学ではオーケストラでトロンボーンをやっていた。「チューニングちゃんとしろ」と言われるより、「木の声を聴いているのか。木の実が落ちているようにちょっとぶら下がっているね」と言って欲しかった。
わしも「勉強しなさい」ではなく「どこにつまっているの?~は考えた?」と聞く。記憶数学でなく思い出数学。本屋で立ち読みしてください。前書きから答を解説してないから。
水から八分の半熟卵なのか、十一分くらいのそれなのか。あるいは春の風のやわらかさか、カケスの羽のやわらかさか。
たとえイメージを共有できたとしても、そこからが遠い。そのやわらかさを具現化するのが調律師の仕事なのだ。
「言葉を信じちゃだめだっていうか、いや、言葉を信じなきゃだめだっていうか」
作家の言葉だが音楽にもあればね。こんな指導者がいればね。素敵だ。
「明るく静かに澄んで懐かしい文体、少しは甘えているようでありながら、きびしく深いものを湛えている文体、夢のように美しいが現実のようにたしかな文体」
たまらん。
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