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「やめて……」
琴梨は、僅かに目を開くと、そんなことを言った。どうしたというのか、俺のことを誰かと勘違いでもして言うのだろうか……。そう思って、俺は琴梨の名を呼んだ。
「琴梨!」
大丈夫か――そう聞こうとした瞬間、琴梨の口元がわずかに動き、音を発する。
「こう……いちろう……さん?」
光一郎――
そうか、俺と、兄貴を間違えているのか……兄貴が迎えに来たとでも思ったのか? それとも、兄貴と待ち合わせでもしていたのか?
「琴梨!」
俺は兄貴じゃない、良く見ろ、琴梨! 俺を、見ろ!
「やめて……そういちろうさん……」
呼びかける俺に、琴梨は怯えたような瞳のまま、拒絶と共に俺の名前を口にした。そして、ゆっくりと瞳を閉じる。
「琴梨! 琴梨!」
琴梨は俺の呼びかけに答えることはなく、意識を手離してしまったようだ。このまま、結婚など……できるわけがない。
まずは怪我の類がないかを検査しに病院へ……それから……
そうだな、もう、琴梨との結婚は、諦めざるを得ないかもしれない。そう、理性の働き始めた頭が答えを投げかけてくる。
そうだ、それが、正常なのだ。始めから、すべてが間違っていた……。
俺は式場に断りを入れると、救急車を呼んでもらって、普段着に着替えてから琴梨と一緒に病院へ向かった。
このまま目を覚まさないなんてことはないよな……
そんな一抹の不安を抱えながら――。
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