逃げ出した花嫁

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――怖い――  思わず、身体が避けてしまった。  颯一郎さんは、私の肩に触れていた手をそっと離す。すっと離れていく颯一郎さんの体と、石鹸の香り―― 「震える女に、無理にキスなんてできない。俺たちの間には、きっとそんなもの必要ないんだ。とにかく、仕事に戻るなら朝までに書いておいてくれ、俺はもう休むから、君も早く自室に戻るといい」  至極優しい声でそう言った颯一郎さんは、キッチンからミネラルウォーターのボトルを一本持ってくると、そのまま自室に帰っていってしまった。 「どうして……」  どうして、私? 颯一郎さんに惹かれているくせに、好きだと思っているくせに……なんで怖いだなんて思うのだろう――。わからない、わからない。教えて過去の私。  私は、なにに怯えているの……?  颯一郎さんを見送って、震える手で自分の名前を書いてく。婚姻届――こんな紙切れ一枚で、私たちの間には、見えない鎖ががっちりとはめられるのだ。互いを緩く縛る鎖――それは、もがけばもがくほど互いを傷つけるものかもしれない。  大人しく、しなければ――。  書き終える前に、困ったことが起こった。父親の名前がわからないのだ、颯一郎さんは知っているのだろうか……。私はそう書置きを残し、明日、颯一郎さんに父親の名前を書いてもらうことにした。判をしっかりと押してから、私もリビングを後にする。  自室に戻り、ベッドに転がった。明日からは、颯一郎さんの妻――橘姓を名乗ることになる。本来ならば、少しくすぐったくて、嬉しく思ったり、恥ずかしく思ったりするのかもしれない。でも――私はとてもじゃないけれど、そんな気にならない。  夫婦を騙る――それは、いかに難しいことだろうか――。相手を愛することなく、信頼する。自由恋愛を認める――私は、きちんと役割をこなすことができるだろうか――。  大丈夫、これは仕事。そう思えば、きっと、大丈夫……。  暗い部屋の中で、次第に意識が遠のいていく。少し、夜更かしをし過ぎたようだ――仕事をはじめるつもりならば、生活リズムを整えていかなければ――。  眠りの深淵に落ちて行きながら、私はそんなことを考えていた。
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