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夏が来る度に、後ろめたい気持ちになった。それは丁度、返すつもりも無く金を借りた相手に安物のドックフードを食べるよう強要されている時の感じに酷似していた。相手は僕に貸した金の事については一言も言わない代わりに、僕を黴臭い部屋のささくれ立った畳の上に正座させ、相手にとって僕がおよそ知らなさそうな難解な語句を並べ得意げな顔をする。業務上過失致死、サイン・コサイン・タンジェント、高度資本主義社会、辟易、といった具合である。辟易した僕は今すぐ逃げ出したいが、何しろ金を借りている。だから、精神を病んだ猿のように手を叩きながら精一杯べんちゃらを言う。だが相手はそれだけでは満足しない。卓袱台の上にぼそぼそと積もった銅色の犬の餌を指差し、ほら食え、と言う。僕は分かっている。相手は僕がこう言うのを待っている。もう堪忍して下さい、金の事は何とかしますから、と。だが僕はそんなことは言わない。二万円を返したくないばかりに僕は、その不健康な兎の糞にも見える安い餌を右手で思い切りわし掴む。大丸や東急ハンズで売っているような、都会的で洗練された上品なペットフードでは無い。口に入れる。ざらざらとした気色の悪い舌触り。全身の毛が逆立つ。噛む。湿った、どことなくブラジルの公衆便所みたいな匂いが鼻の奥と胃にまで広がり、僕は嗚咽を漏らす。吐き気と一緒に、涙が溢れる。僕に金を貸した相手の顔を見る。苦しむ僕を見てさぞ面白がっていることだろう、と思ったが、青ざめていた。僕が本当に犬の餌を食べるとは思っていなかったのだろう、驚きのあまり出来損ないの笑顔、としか形容のできない顔で、目の下を痙攣させていた。めっちゃ、引いていた。結構、結構。そして思う。いかん。何故、僕はこんなことをしているのだろう、と。いかんではないか。この僕が、至極まともな人間である僕が…、ボクハマトモヤ…。
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