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4
「お願い、そばにいて」
あの時、そう縋る彼女の肩に僕はそっと手を置いた。
「わかった。ただ、1日だけ待ってくれ。僕は現実の世界からずっと目を背けて生きてきた。君と共に生きる道を選ぶなら、現実から逃げるのではなく、自身の意志でこの世界を、君を、選びたい。」
彼女は戸惑いの色を浮かべながら尋ねた。
「本当に、いいの?私を選ぶということがどういうことか、貴方ならわかっているのでしょう?」
僕はゆっくりと頷いた。
「僕はただ、その手を温めてあげたかったんだ。」
僕が彼女の手をとると、熱を孕んだ雫がぽたぽたと降ってきた。
「…馬鹿な人。」
そう言う彼女は今まで見た誰よりも幸福そうな表情をしていた。
******
「おかえりなさい。」
いつものように沈んでいくと、その果てで彼女が待っていた。
「ただいま。」
「本当に、よかったの?」
躊躇いがちに問う彼女に、僕は頷いてみせた。
「後悔は微塵もしていないよ。むしろ君のおかげであの世界を愛することが出来たんだ。感謝しているくらいだよ。」
「でも…」
僕は彼女の手を引いて、あの紫陽花の園へ向かう。
「どこにいようが心は変わる。だけどそれ故に美しいんだよ。それを教えてくれたのは君だから、僕は君といることを選んだ。」
「だけど…」
僕は彼女の言葉を遮るように強くその身体を抱きしめた。
「ずっと言いたかったことがあるんだ。このまま、聞いてもらっても?」
腕の中で彼女が小さく頷く。
ずっとこのままでいられたらいいのに
そう願ってしまうほど、彼女は温かかった。
「今まで一人にしてごめん。沢山傷つけてごめん。僕が背負うはずだったものを、君はたった一人で受け止めてくれていたんだね。」
この暗い世界でたった一人
過ごした時間はどれだけの痛みだったろう。
「ありがとう。僕はもう、大丈夫だよ。」
泣き腫らした顔で彼女が僕を見上げた。
戸惑いつつも、安心した表情だった。
「なんだ、やっぱり君は綺麗じゃないか。」
彼女が笑い、僕も笑った。
紫陽花の咲くこの場所で、僕達はふたり手を繋ぎ、優しい朝の訪れを待った。
それは来るかもしれないし、来ないかもしれない。まさに賭けではあった。
正直、僕にとってはどんな結末であっても大きな差異などなかった。
それくらいの心持ちで、ここに来たのだから。
「もう一人にはしないから、もしここを出ることが出来たら、そのときは僕が君を連れて行く。これからは、ずっと一緒だ。」
震える彼女の手を僕は強く握った。
遥か遠くでサイレンの音がした。
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