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大地(だいち)カズオ……
そんな、名前の男がいた。
彼は、生まれてから一度も、人と会話をしたことが無い。
喋る事が、出来ないわけでは無かったようだ。
だけど、彼は、自ら、あえて「言葉」を閉ざした……
「言葉は、人を傷つける……言葉は、平気で嘘をつく……」
彼は、そういう環境で、生まれ育ったようだった。
カズオは、大人になった。
仕事は、人と喋らなくて済むという理由から、路上で一人で、看板持ちのバイトを、知り合いから紹介されて、迷わずその仕事を、選んだ。
日給は、一日十時間拘束(こうそく)で、七千円。
カズオ……大地カズオは、その仕事を、ほぼ毎日休むことなく続けていた。
ある日、カズオは、津田(つだ)沼(ぬま)の、モデルルームの案内板の看板持ちの仕事を終えて、一人で、帰り支度をしていた。
カズオの横を、一瞬、家族と一緒だった幼い少女が、走り抜けた。
「今(きょ)日子(うこ)、危ない!!」
母親らしき女性が、大きな声で、叫んだ。
信号の色は、赤だった。
交差点を、大型トラックが、スピードを出して走り抜けようとしていた。
今日子という、女の子が、交差点の真ん中で、立ち止まった。
周囲の大人たちは、「ああっ!もう、ダメだ……」そう、あきらめかけた。
トラックが、今日子の体を、はねそうになった、その瞬間……
「ウオーッ!!」
カズオが、大きな声で、叫びながら、今日子の体を、強く押し出した。
「キーッ!!」
急ブレーキを踏んだトラックにカズオは、跳ね飛ばされた……
一瞬、その場の空気が、凍りついた。
カズオに押し出された今日子という少女は、かすり傷だけで助かった。
カズオは……
十年後、成人して、社会人となった今日子が、あの、交差点にいた。
あれから、十年間、欠かす事なく、あの日と同じ日付になると、今日子は、花を手向(たむ)けに、この交差点に来ていた。
「大地カズオさん……わたしの、命の恩人……」
今日子は、人目もはばからずに、大粒の涙を流し、泣いて、その場所から長い時間、離れる事は、無かった。
涙が、枯れる頃、今日子は、あの交差点でカズオが、いつも看板を持っていた場所を、見てみた。
どこかの、アルバイトだろうか?若い男性が、看板持ちをしていた。
大地カズオ。享年(きょうねん)21歳……
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