第1章

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 大地(だいち)カズオ……  そんな、名前の男がいた。  彼は、生まれてから一度も、人と会話をしたことが無い。  喋る事が、出来ないわけでは無かったようだ。  だけど、彼は、自ら、あえて「言葉」を閉ざした…… 「言葉は、人を傷つける……言葉は、平気で嘘をつく……」  彼は、そういう環境で、生まれ育ったようだった。    カズオは、大人になった。  仕事は、人と喋らなくて済むという理由から、路上で一人で、看板持ちのバイトを、知り合いから紹介されて、迷わずその仕事を、選んだ。  日給は、一日十時間拘束(こうそく)で、七千円。  カズオ……大地カズオは、その仕事を、ほぼ毎日休むことなく続けていた。  ある日、カズオは、津田(つだ)沼(ぬま)の、モデルルームの案内板の看板持ちの仕事を終えて、一人で、帰り支度をしていた。  カズオの横を、一瞬、家族と一緒だった幼い少女が、走り抜けた。 「今(きょ)日子(うこ)、危ない!!」  母親らしき女性が、大きな声で、叫んだ。  信号の色は、赤だった。  交差点を、大型トラックが、スピードを出して走り抜けようとしていた。  今日子という、女の子が、交差点の真ん中で、立ち止まった。  周囲の大人たちは、「ああっ!もう、ダメだ……」そう、あきらめかけた。  トラックが、今日子の体を、はねそうになった、その瞬間…… 「ウオーッ!!」  カズオが、大きな声で、叫びながら、今日子の体を、強く押し出した。 「キーッ!!」  急ブレーキを踏んだトラックにカズオは、跳ね飛ばされた……  一瞬、その場の空気が、凍りついた。  カズオに押し出された今日子という少女は、かすり傷だけで助かった。  カズオは……  十年後、成人して、社会人となった今日子が、あの、交差点にいた。  あれから、十年間、欠かす事なく、あの日と同じ日付になると、今日子は、花を手向(たむ)けに、この交差点に来ていた。 「大地カズオさん……わたしの、命の恩人……」  今日子は、人目もはばからずに、大粒の涙を流し、泣いて、その場所から長い時間、離れる事は、無かった。  涙が、枯れる頃、今日子は、あの交差点でカズオが、いつも看板を持っていた場所を、見てみた。  どこかの、アルバイトだろうか?若い男性が、看板持ちをしていた。  大地カズオ。享年(きょうねん)21歳……  
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