第1章

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 私たちの目の前には三歳ぐらいの女の子とその母親らしい二人連れがいて、パンをちぎって鳩にやっていた。私は少し離れているのに、村上さんの素振りがこの母娘にぶつからないか、それが少し気になった。 「上司はね、すごく上手いんです。もう慣れているから、何も感じないんですね、」  それを聴いている間、私は三歳ぐらいのその女の子の仕草を見ていた。彼女は、手のなかの白いパンをちぎり、しきりと首を動かしている鳩に向かって投げてみせたり、また母親の真似をして少しフェイントをかけたり、またこちらに向かって来る鳩を恐れたりしていた。 「いずれ自分もそうなるものだと思うんですけれどね、でも、やってみろと言われて出来るものではないですよ。あれは」彼は、ハンマーで殴るものの、それが豚の頭ではなく、背中や尻などにぶつかってしまうということを言った。 「そうなると相手ももう必死です、自分が殺されるんだと分かったときの動物の悲鳴って、菊池さん、分かりますか」  そう、彼は私を喜ばせようとして言った。私は、豚を追いかけている作業員と、全身痣だらけで逃げている豚のいる光景を頭に浮かべながら、目の前にいる白いパンをちぎっている少女と鳩の群れが、彼らと不思議な相似があるように感じ、彼女たちを見てこの話題をしたのかを訊こうとして、止した。 「受験生」という呼称が、私たちに共通する名前になった。まるで日めくりカレンダーみたいに、私たちの上を覆っていた季節は新しい紙らしい響きで切り離され、殺風景な「受験生」という冷たい冬を思わせる字面の名前で呼ばれることになってしまった。どうしてこんな悲劇をみんな当たり前のこととして呑みこめるんだろう、と私は思った。太陽が昇って来ると分かっていても誰も止められないみたいに、運命が想像したとおりの嫌な局面に差し掛かっても、誰もそれをストップ出来ない。 「えり香の香、を外したみたいに」と、私はあきちゃんの提案のことを言った。 「人生が嫌な段階になったら、べりりって自分から最新の未来を厚く剥がして、その嫌な季節が来るのを防げたらいいのに」たとえるなら人生に三年生の部分などは要らない、ずっと途中まででいい、二年生のままで良いのにどうしてそうは出来ないのだろう。私の学年なのに、なぜ私が決められないのか。
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