第1章

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 面接に行く前、私はまるで溺れるみたいにあきちゃんに抱きついた。「ただでさえ暑いのに、」と彼女が文句を言った。「匂いしない?」と私が尋ねると、そんなに不安ならスプレー貸すよと、彼女がエイトフォーを貸してくれた。フレッシュレモンの香とかで、煙草の染みみたいな匂いが消せるのかは疑問だったけれど、自分でも自分の匂いが分からなくなっていたから、他人の判断に従うしか仕方がなかった。高校生を雇ってくれる店は、近所では駅前のマックか喫茶店しかなく、私は後者にした。マックのハンバーガーは、働く前からもう既に飽きていた。後者はどこかひっそりとしていて、子供の頃に一度、親戚の誰かに連れていってもらった覚えがあった。あれも何かの、時間潰しのためだったのだと思う。私はチョコレートパフェを食べさせてもらった。その思い出が、引き出しから出てきたオルゴールみたいに、何だか嬉しかった。光景の微かな輪郭がまだあり、捩子を巻いたら動き出しそうな愛らしい思い出だった。  私はあっさりと合格した。出来るだけ丁寧な字で書いた履歴書の他に、私はいろいろと自分に有利になりそうなものを持っていた。まず私は、あきちゃんの相方とは思われない程度に見た目が真面目そうだったし、髪も染めたことがなかった。そして人見知りだから、他人の前に出るとごく自然に緊張出来た。私を面接したのは眼鏡をかけたおじいさんで、まるで履歴書を見るような目で、私のぱっとしない風貌を見て一言「真面目そうだ」と言った。来週から来てくれる、と言った声は小さく、私は既にもう彼の習慣に繰り入れられたかのようだった。 「大学受験もこんなに楽勝ならいいのに、」  と、私がエイトフォーを振りかけておじいさんを欺いたことを報告すると、 「そんなに簡単に成功したらゆるさんよ」  と、結構本気らしいトーンであきちゃんに言われた。私たちはともに、のろのろと低空飛行で生きてきた同士で出会ったというのに、本気で準備を始めてしまった劣等生の私を、あきちゃんは少なからず疎ましく思い始めていたようだった。私たちはそれぞれ医者になりたく、また、何の痛みでも消化できる薬を扱うひとになりたく、他人がそうなることは希望していなかった。  家の仕事もろくに手伝っていなかった私は、喫茶店で自己流のへたくそな家事みたいな仕事をして、アルバイトの先輩の大学生の男のひとに困った顔をされた。
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