第1章

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「マニュアルとかはないけれど、俺のするとおりにやって」  私はこんな風に、他人のするとおりに生活してみてと言われて、よくあきちゃんの言う「平穏無事な人生がいちばんだよ」という言葉をふと思い出した。まねすることで、そのとおりにやれるんだとしたら、平穏無事な他人をまねて、そういう一生が送れたらどんなにいいだろう。  働き出してひと月ぐらいした頃、ドラマの場面に出てくるみたいな、何だか作り物めいた場面に遭遇した。女のひとが罵声を浴びせて、目の前に座っていたおじさんにコップの水をぶちまけた。私はカウンターで呆然と眺めて「きっとこんな場合にも、とっさに取るべき正しい反応というものがあるはずだ」などと愚かな模索をしていた。私の他に誰もいない時間帯だったから、私は誰の真似をして自分を隠すことも出来ず、剥き出しに呆然としているより仕方がなかった。  攻撃者になった女のひとは、傷んだ髪を盛り上げてごついパワーストーンの数珠をしていて、美人らしかったけれど自分の輪郭を誇張しすぎて、かえって老婆みたいに姿の印象が不吉だった。まるで自分の怒りを模写するみたいに、彼女が乱雑に歩き去った後も、彼女の不満の痕跡のように、辺りに香水の匂いが漂った。  私は濡れたテーブルを拭こうとして、水をかけられた中年男性の方へと近づいた。彼女をああまで怒らせた彼には驚いたことに、怒らせるだけの攻撃をした気配も、また水をかけられたことへの動揺の気配も全くなく、毎日電流を浴びている家畜のような静けさで、その場に根付いたように座っていた。たとえて言うなら太いハムの断面のような、死んだ肉としての明るさすら妙に感じられ、私はいよいよ彼をまともに見ることが、人間としてしてはいけないことに抵触するのではないかと恐れた。  私が水の入った灰皿をどけている間も、びしょぬれになった週刊誌をラックから引き抜いている間も、彼はまるで大人のすることを見ている子供のように、無頓着にその動きの傍らにいて、私がテーブルを二度目に拭くときになって、ようやく目の玉だけを動かして「ごめんね」と呟いた。
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