第1章

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 訊いてもいいかな、と大学生の先輩は、わざわざ私にその質問をぶつける前に尋ねてきた。私は何であろうと別にかまわなかったので、いいですよと言いつつ皿を拭いた。 「村上さんとのデートってさ、いつもどこに行ってるの」 「ラブホです」  と私は言った。想像したとおりの、ぞっとしたような反応が彼の顔をよぎったので、 「冗談です、近所の公園とかです」と私が本当のことを言うと、皿洗いの手を止めて彼は、 「その方が何か気持ち悪いなあ、」と本音らしいものを漏らした。私は、平気でいじっているうちにうっかり取れた乳歯の、気持ちの悪い白さを見つけてしまったような気分で、「失敗したな」と思った。私は、何を嘘ですとごまかしていいのか分からず、そうですよねと言ったけれど、皿洗いの音に掻き消されて会話にならなかった。 「役所に勤める前は、屠殺場に勤めていました、『とさつ』っていって菊池さん、分かりますか、結構、難しい字を書くんですが」  公園のベンチに座っているとき、村上さんが足元の砂に、棒きれで書いてくれたことがある。こう書いて、それからこうです、と長い時間かかって『屠』という字を村上さんは砂の上に創り上げた。その字の厳めしいことがその仕事の厳しさの表れであるかのように、またそう自慢しているかのように見えた。  私は以前、生物の授業で豚の目玉を解剖した話を、彼にしていたことを思い出した。死んだ豚の目だと思うと、その視線にぶつかるのも怖かったこと、また普段食卓で見る肉にはああいう目が付いているのかと思うととても怖い、みたいなことを言った覚えがあったが、屠殺のことまでは連想しなかった。  また、その話のときには、彼は自分が屠殺場で働いていたことは言わなかったと思う。珍しく、私が熱意を持ってした話が、豚の話だったので、彼は内心私を喜ばせる共通の話題を見つけたと思ったのかもしれない。私たちに共通の話題などなかった。彼の目に私の震えは、嬉し気な昂奮のように見えていたことを、このときに私は初めて知った。 「豚のね、頭を殴って気絶させるんです。それで頸動脈を切ってね、失血死させるんです。ハンマーでこうして頭を、」なぐります、と言って彼は素振りするような仕草をした。 「なかなかね、当たりません。やっぱり、可哀想になるから」
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