プロローグ

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86歳で曽祖父が他界してからもひいばあは相変わらず矍鑠(かくしゃく)としていて、自分の身の回りのことは全てこなし、時々、俺達の好きなおかずや手作りの和菓子を差し入れてくれたりした。 90歳を越えてさすがに老いが目に見えるようにはなったが、それでもまだまだ年の割には元気で、誰かが付き添えばシニアカーを押して近所のスーパーへ買い物にも出かけられた。 だが、94歳の誕生日を迎えたばかりの12月下旬のこと。 ひいばあは庭で転倒してしまった。 みんなが大好きなお手製の漬物を俺の家と祖父母宅に届ける途中、雪に隠れた凍てつく地面で足を滑らせたのだ。 右大腿骨と右手首を骨折し、ひいばあは入院を余儀なくされた。 ひと月ほど病院で過ごすうち、ひいばあはだんだんわけのわからない言動をするようになっていった。 入院すると一時的にそうなる人もいるらしい。 しかし、ひいばあの場合は治ることはなく退院後もゆっくりではあるが悪化の一途を辿り、ついには認知症と診断された。 もちろんその病名は耳にしたことはあったが、症状を目の当たりにしてみるとなかなか衝撃的だった。 中でも一番こたえたのは。 ひいばあが俺のことを“良郎(よしろう)”と呼ぶことだった。 良郎さんはひいばあの弟だ。 第二次世界大戦の最中(さなか)、和菓子職人だった父親は戦死し、後を追うように母親も病気で亡くして、ひいばあと良郎さんはこの世に2人きりになってしまった。 それなのにその可愛い弟までも“御国の為”に戦争へ差し出さざるを得なくなり、彼は二度と戻って来なかった。 以来、ひいばあは滅多に良郎さんの話をしなかったらしい。 きっと名前を口にすることもできないほど悲しみは深かったのだろう。
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