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第一話 香薫
大江戸には幕府によって守られている色街がある。そこの夜は飛び切りにきれいだと、男は言う。
甘ったるい匂いと、けだるい声。色艶のいい会話が混ざり合い、ひっきりなしに人が往来する。ここでは武士も、町人も、無い。どこの誰かなど知らないでいることが粋とされた場所。
―吉原―
粋な男たちが艶女を求めて集まってくる。異質な空間。
南にだけある大門は現世とあの世をつなぐ門。
男にとっては日常を忘れさせてくれる極楽も、そこに住まう女たちにとっては―地獄―
三味線や鐘の音が入り乱れている。むせ返るばかりに焚かれた香が道にまで溢れている。無駄使いだと思うほどに明かりが焚かれ、まるで昼間だ。
「おい、あれ見ろよ」
「女だ? 外の女、だよな?」
「あれ知ってるぞ、六薬堂って薬屋の女将だ」
「薬屋ってことは、どこかの廓に病人がいるのか?」
ひそひそ声も大きくなるほどの賑やかな大通りを、六薬堂店主の詩乃は歩いていた。肩の上で切りそろえられた髪、色白で、血色のいい唇。背筋が伸び、道行の紺が深い色合いを出していた。
「一体どこの女郎が病気なんで?」
といった言葉にうんざりする様に一つの店の前で立ち止まった。
「え? 若宮さんところじゃないか、あんな大店?」
詩乃はうんざりしながら顔を上げると、
「藤若―。来てやったぞ」
と大声を出した。その声に一瞬笛の音が止まるほどで、人々が一斉に詩乃のほうを見たときでもあった。
「藤若―ぁ」
「ウルサイ」
二階のお座敷の障子が開き、襦袢姿の女郎が姿を見せた。その姿はとても、
「お、花魁? 藤若の花魁?」
と人々が思うほどのもので、化粧っけなどなく、青白くふらふらさえしていた。
「お詩乃さん、お詩乃さん、堪忍してください、そんな店の前で大声何て、」
慌てたように店から出てきたのは小さな禿だった。
「よぉ水鳥、元気にしてたか? ほら、金平糖」
「うわぁ、ありがとうでありんすぅ。じゃなくて、シーです。シー」
水鳥は口に指を押し当てて静かにと合図をする。
「水鳥、その女に何を言うてもどないにもならんよ。お母さんに言うて、上げてもろうて、」
「はいぃ、藤若花魁」
水鳥は金平糖を両手で握りしめ店の中に入っていくと、すぐに内儀が出てきた。
「まったく無粋なオナゴやねぇ、あんたは。まぁ、ええわ、さっさと上がっておくれ」
詩乃は肩で息をして入ろうとした時、
「ちょっと待て、先ほど、藤若を呼べと言ったらサワリだと抜かして、薬師を呼んだとはどういうことだ」
見れば、侍のようで、たぶん、どこかいいところのバカ息子だろう。と思われる典型的な風貌をしていた。
「えぇ、今日は藤若はサワリです。ですから、」
「ほかの病ではないのか?」
詩乃はうんざりしたようにため息をつき、中に入ろうとしたのを、その侍が肩をつかんで止めた。
「おい、薬屋、藤若は何の病気だ」
グイっと引っ張られ、詩乃の持っていた箱が大きく揺らぎ、詩乃の眉間にしわが寄った。
「心配ならご一緒にどうぞ、言っても聞かないのなら見るが早いですよ。あほらしい」
「あ、あほらしいだと?」
詩乃は肩の手を払って店の中に入っていく。
相変わらず、香でごまかしているが、言い得ない匂いがそこここに染み出ていて「本当に、空気が悪い」詩乃はうんざりしながら二階へと上がっていく。
侍も、内儀の制止を振り切って上がっていく。
「後生ですから、北村様、藤若はサワリなんです。そういうところを見られるのは花魁にとってあまりにも非情で、」
と訴えを無視して北村と言われた侍は勝手知ったる藤若の部屋の障子を思いっきり開けた。
布団が敷かれ、藤若が腰巻をまいた状態で俯せになっていた。確かに、鉄の匂いがする。
詩乃は道行を脱ぎ、持ってきていた箱を開けて灸を出し、手際よくそれに火をつけて藤若の腰に置いていく。
「な、何をしている、」
「サワリがひどいのは、血のめぐりが悪いからなんですよ。それの緩和として、腰と足に灸を据えるんです。あとは、足の血のめぐりをよくする按摩を施す。すると、だいぶ良くなる」
詩乃は灸を腰と足に据えた後、窓際に香を焚いた。
「それは何の香どす?」
女郎の鈴和香がお邪魔します。と申し訳なく聞いてきた。
「あの子は鈴和香、わちきの妹みたいな子でありんすよ。香が気に入ったと言っておりんしたが、あちきはわかりんすというて、」
藤若がそういうと、詩乃は鈴和香に近づき、小さな箱を見せた。紙に包まれた薬のようなもの(ティーパックだが初めて見る)があった。その中は乾燥した葉っぱのようだった。
「これは西洋菊の仲間でカミツレと言ってね、精神安定になるんだよ……鈴和香さん? あんたあんまり眠れてないようだから、これをあげるよ。三日分。いい? 急須にこれを入れて飲むの、最初はその独特な味がイヤかもしれないけど、安定剤、薬だと思って、ぬるくなってから飲みな、この藤若のバカみたいに熱いうちに飲んで舌を火傷しちゃ、意味ないからね。一応、三袋渡すけど、液が出るのは、各二回ぐらいかな、まぁ、もったいないからって何度も飲む人もいるけど、味がしなくなったら袋を破って、陰干しして、乾いたら、火鉢に少しくべれば香りが立つはず。それだけでも効果はあると思う」
「これを飲んだら眠れますか?」
「血色の悪さは冷えだろうからね、それはショウガも入っている特製だから、体も温まるよ。それから、今から藤若にするやつは、自分でも何とかできるだろうから、覚えておくといい、いい?」
詩乃は藤若の腰巻をふくらはぎまでまくり、「ふくらはぎのこの辺り、承間というところだけどね、老廃物の蓄積を防止するんだ。老廃物がたまっていると、かなり痛い」
「いった―い」
藤若が手を伸ばし床を叩く。
「動くな、お灸が落ちる。火事になったら死罪だぞ」
詩乃が言うと、藤若がうなりを上げて布団の縁を握る。
鈴和香はそばに座り、片足を立てて詩乃の手が置かれた辺りを押して顔をしかめる。
「あんまり痛いと、按摩の意味がないんだ。ほどいい痛さに加減して揉む。ゆっくり、じっくり、そして、足首のここ、この辺りが冷たいと、内臓が弱ってたりするから、ここを下から上、足先から心臓へ血を送るような感じで揉みあげる。しばらく揉んでいると暖かくなるだろ?」
「そうでありんすね、なんだか、体が温かくなってきたような」
「そう、冷えて眠れない時にはここを揉むといいよ。あとは、このくるぶしの近くのこの辺りに、サワリの痛みなんかを和らげるところがあるから、そこを揉む。サワリがひどいのは血のめぐりが悪いからだからね。いい仕事をさせたかったら、サワリの時に大騒ぎをしたり、やたらと大仰に自分をのたまわって、休んでいる部屋に入ってくるようなことをせず、……あの桜の枝を折ってくるバカの様に風流じゃないと、藤若の心は射止めないですよ」
詩乃はそう言って灰となったお灸を背中や足から取り除き、何枚も重ねた手ぬぐいに、少しだけやかんの湯を落とすと、それを絞り、隅々まで湯をいきわたらせたら、広げ、軽くはたいてから、藤若の腰にそれを乗せる。
「はぁ……極楽」
詩乃は首をすくめ後片付けを始める。
「詩乃さん、あんたが藤若と懇意で、それ以外で吉原に来てくれないのは知っているんだけどね、」
言い難そうに内儀が声を出す。
「あちきの姐さんでありんすよ。梅若と言いましてね、この数日頭が痛いと仕事をしてなくて、」
「男ができたとか?」
「……それは考えましたが、どうにも、こうにも、見てやってもらえませんか?」
「ここにも医者は居るでしょう?」
「下ろし専門はね」
藤若から手ぬぐいを取り上げる。藤若の言葉に詩乃は首をすくめて立ち上がり、木箱を持った。
藤若は起き上がり、襦袢を羽織り、詩乃に指をついて頭を下げた。
「姐さんを頼みます」
詩乃は何も言わずに出て行った。
藤若はまだ仁王立ちでいる木村を見上げ、
「まだおりんしたか? わっちがサワリだというのを嘘だと疑い、このような醜態をさらす羽目になって、わっちは、愛想がついたでありんす」
「ふ、藤若?」
「詩乃さんが言うように、同じバカなら、桜の枝なんぞ折ってくれる方のほうがいいでありんす。……さぁ、もうお帰りになっておくんなまし」
藤若はそういうと布団に横になった。禿の水鳥がかいがいしく布団をかぶせる。
木村は何かを言い捨てようとしたが、そのまま鼻息荒く部屋出て行った。途中、いろんな人とぶつかりそうになっては、無粋に喧嘩を売っていた。
「まったく、粋とかそういうものを知らぬ男は嫌ね」
詩乃は内儀に連れられて梅若の部屋に行った。内儀が声をかけるが音がしない。障子を開ければ、向こう向きに頭を押さえまるまって寝ている女郎がいた。
「梅若?」
詩乃がそれを制して中に入り、梅若のそばに座る。
顔をしかめたままでいる。首筋に手をやれば冷たさと、無言が伝わってくる。手首をつかめば、腕はすでに固い。
「梅若さんと最後に話したのは?」
「昨夜でしたね、頭が痛すぎてと、」
詩乃が梅若の頭を触る。左こめかみの上あたりに少しだけこぶを感じる。
「内儀さん、梅若さん、転んだか、何かで頭を打ったりしました?」
「え? ……、えぇ、四、五日前でしたか、廊下でお客さんと出合い頭にぶつかりそうになって、よろけた瞬間柱に頭を打ったとか、」
「……そんなことよくあるんですか?」
「そんなこと? 出会い頭で? いいえぇ、今まで一度も、ただ、あんたも会ったでしょ、あの方が、何が気に入らないって、その日最初の藤若の相手は自分でないと気が済まないと言って、でもね、もうその時にはいい時間で、藤若が今晩の相手をもう入れたところだったんですよ。それに怒って、部屋まで行ったけれど、相手が、ご自分より上だと判ると、怒って、まぁそれは粗野な方でね、……それが原因てことではないでしょ?」
「……身内は、居ました?」
「……いいえ……そう、送りの準備をしますね」
詩乃は手を合わせた。
きれいな顔だろうに、よほど痛かったのだろう、痛みに苦しんだ顔のまま死ななきゃいけないなんて、なんて人生だ―詩乃はそう思いながら店を出た。
夜風に桜の花びらが目の前を飛んでいく。見上げれば、大通りの真ん中に見事な枝ぶりの桜があった。
「おまえには恥をかかされた、そこになおれ」
詩乃が声のほうを見れば北村が柄に手を乗せた状態で近づいてきた。詩乃は辺りを見るが、たぶん、北村は詩乃に言ったのだろう。
「聞こえぬか、手打ちにしてくれる」
「あぁ、やっぱりあたし?」
詩乃の素っ頓狂な声に北村が刀を抜こうと、半身抜いた時、その手を後ろから誰かが掴んだ。北村が振り返れば、
「し、城山様、」
急にがくがくと北村が震えだし、目が見開いたままになった。
「あら、奇妙なところで会いましたね」
「藤若のなじみでな、もう帰るんで一目会いたいと思ったが、障子を開けてくれそうにはないな」
詩乃が二階を仰ぎ見る。
「藤若のサワリはひどいですからね。……桜折ったのおっちゃん?」
城山はニカっと笑った。
「お、おっちゃんて、」
北村が絶句するのを、城山が刀を押し片付けさせ、
「詩乃がこの店の薬師になったのは、俺が連れてきたからだ。詩乃は、俺の世話になった方の娘でな、貴殿に切り捨てられていい娘ではないんだ」
北村がその気迫にたじろぐ。
「無粋だねぇ。だから侍って嫌いでありんすよ。ここは吉原でありんすよ? 身分だの、恩義だの、そんなものなく遊べるところ。男にとっての極楽でありんしょ?」
二階を見れば桟に腰かけて藤若がキセルを燻らせていた。
「もういいのかい?」
城山が声をかけると、
「城山様が詩乃さんに頼んでくれたんでありんすね。わっち、藤若、城山様のことをますますお待ちいたすでありんす」
「あぁ、サワリ明けする明後日にまた出てくるよ」
「はぁいぃ」
藤若は甘くそう答えて障子の奥に引っ込んだ。
「詩乃、すまなかった。籠を用意させている。あと、付き人も、」
城山が顎で示すところには駕籠屋と、若い男が立っていた。
「何から何まで、」
「いや、無理を言ってすまなかった」
「いいえ。それでは」
詩乃は頭を下げて籠のほうに向かった。
「今日は長かったですね、」
籠そばの若い男が荷物を受け取りながら言った。
詩乃は頷くだけで黙って籠の中に入った。籠はそのまま大門をくぐり、下界へと降りて行った。
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