第五話 さんさん雨降り、娘はどこへ行った?(3)

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第五話 さんさん雨降り、娘はどこへ行った?(3)

 薬屋の庵の近所から乱痴気騒ぎの証拠が見つかったが、それが土左衛門と結びつけることはできなかった。すでに娘の遺体は荼毘に付され正体は解らない。長崎屋から香典と称して多額の金をもらった家族は、不徳の娘に過分なことを。ともう捜査を打ち切ってくれとさえ言われた。 「これ以上、かよを悪く言わないでくださいませ」 というのだが、そう言われれば言われるほど、岡 征十郎の中に嫌なものが引っ掛かった。  すっかり夏になり、うだるような暑さに、昼間は人の通りも減り、ちょっとでも涼もうと木陰辺りに人がいるが、それらも、我慢ならないと家の中に引っ込む。  岡 征十郎は首筋の汗を手ぬぐいで拭い、日陰で一息ついた。  土左衛門のかよの事件は、もう心中ということで報告書が作成されてしまったのだ。  ―こんなものが転がってるなんてね。いやな世の中だよ―  詩乃がそう言ったのが引っ掛かった。  大麻を摂取する文化のないこの国にそんなことをする輩がいるということは、何かしらよからぬことが起こっているのかもしれない。そういうのだ。いったいどういうことが起こっているのか? と聞いたが、それは解らない。と言われた。  考えてみたが、若い連中が乱痴気騒ぎを起こし、その連中の一人が特にひどく幻覚を見て、人を襲う。ことはあるかもしれない。事件としては大事件だが、よからぬこと。というほどのことでもないだろう。いや、人殺しなんてのはよからぬことなのだが。  岡 征十郎はため息をついた。もう何度もついている。暑さのせいもあるが、吹っ切れてない感がひどかった。  体を圧し潰すような熱気に恨めしく太陽を見る。まぶしくてまた、ため息が出る。 「暑気払いにはいいですね」  梅雨明けから一月ぶりに雨が降った。さぁっと雨が降り風が駆け抜けていく。一気に涼しさが増し、汗がすぅっと引っ込んだ。  番頭が眉をひそめながら番頭台に座る。  詩乃は小上がりに腰かけ、たらいに足を浸しているが、裾は膝上までまくっていて、両足が見えていた。 「ごめんくださいね……あら、」  小菊が暖簾を押して入ってきた。入って詩乃の格好を見てくすくす笑う。 「大丈夫よ、小菊姐さん。どうぞ」  小菊が額に汗を浮かせてた。番頭から水をもらい、一息ついて 「もう、おかしなことばかりだわ」  と言った。 「おかしなこと?」 「まぁ、お店の方の言うように、今は繁盛期じゃないから、里帰りさせている。と言われたらそうかもしれないけれどね」  詩乃が首をかしげる。小菊はもう一杯水をもらってから、 「多門町にある(うどし)長屋―の大家さんが卯年なんですってよ―そこに住んでいるさんが最近見なくて、おまささんてのはね、長唄を習いに来てた人なんですけどね、来なくなったから長屋に様子を見に行ったら、店が忙しいからちょいと泊まり込みの仕事があるとか行ったきりだって。それで店に行ったら、二日ばかり大きな取引があったから、泊まり込んで仕事をしてもらったが、もう帰ったって、ちょいと給金をはずんだら、田舎に帰ると言っていたって言ってたのよ。それが一つ」 「一つ? 他にもあるの?」 「そうなのよ、って芸子上がりのがいるんだけど、これの性格がね。もともとあたしと馬は合わないのだけど、昔はもっとしゃんとしてて、きれいにしてたんだけど、なんだかちまったね、夏にやられたって言ってもすごい痩せようでね、病気なんじゃないかしらって。あと、二人ばかりは芝居小屋の役者に熱を上げているとかで、まぁ、それはすごい買い物をしててね」 「買い物?」 「そうなのよ、浮世絵を買うくらいならわかるわよ、あたしだって、二枚ぐらい持ってるから。おしろいだとか、紅だとかも解るわよ。でもね、あれはどうなんだろうねぇ」 「あれって?」 「なんだかよくわからない数珠」 「数珠?」 「そうなのよ。なんていうのかしらね、色のついた石で、それがね、もう、びっくり、小判三枚。信じられる?」 「それは、……とても上等なものですね」 「上等なものですか、多分。あんな石ころなんか河原にいくらでもあるって言ったんだけどね。もう、みんなこの暑さで頭おかしくなっちまったみたい」  小菊の言葉に詩乃はつられて笑う。  今日も、今日とて暑い。  数日前小菊の訪問後、急に店が忙しくなったので、番頭は詩乃と小菊の話し、おかしくなった娘たちについて議論できなかった。今日も、朝から立て続けに接客をしていたので、議論できず、すでにそのこともこの時には忘れていた。 「このまま溶けるかな?」  詩乃がふぅふぅと息をしながら言う。 「それはないでしょうね」  詩乃の言葉に番頭が冷たく言い放つ。詩乃が口をとがらせ手洗(たらい)の水を蹴る。 「長屋回り、行きますか?」 「そうね、水下し、食あたりが増えてきてるからね。ちゃんと火を通せって言ってるんだけどね、」 「暑いんで、火の側は嫌なんでしょうねぇ」  詩乃は首をすくめる。  夕立が過ぎ、さぁっと涼しくなったころ詩乃は長屋に向かった。今日は小菊の居る長屋だ。  最近特に食べ物が痛みやすく、それでも食べるから胃腸薬がよく出る。背中に背負った風呂敷の中に大量に包んで持っていく。  本当は行きたくなどないのだけど、薬を売るだけしかできない番頭では、その症状を見極めて、用があれば小早川療養所に行かすなんてことができないので、面倒だが出向かなくては行かないのだ。それに、この巡回で結構な収益が出るので、番頭いわく、「私たちの給金ぐらいは、稼いでください」と言われているので、一月に五日ほどだが、あちこちの長屋を巡回しているのだ。  長屋に着くと、やはりここも他と同じく、胃腸薬が多かった。あとは、暑いからって腹を出して寝ていた子供が夏風邪をひいていたぐらいだった。 「それにしてもお小菊姐さん遅いね」 「あれ? 詩乃さん、あんた知らないのかい?」  長屋の話し好きの女将さんが口を出した。 「小菊さん、いつだったかねぇ、あれはクズごみの回収が来たから、」 「二日前だね」 「そうそう、二日前に出かけて行ったんだよ。どこ行くんだい? って聞いたのさ、お稽古とかって感じじゃなかったから。そしたら、大変なことかもしれない。ってだけ言ってね、すごく神妙な顔をしててね、」 「大変なこと? どんなこと?」 「さぁ? でも、おまささんもきっとそうだとか、あの子たちも一緒だとか言ってたわ」  詩乃は首をかしげる。  小菊が言ったあの子たちというのは、この前来た時に話していた芝居小屋の役者に夢中になった二人のことだろう。それが一緒にいるということなのだろうか? だが、おまさは特別に給金をもらって里帰りしているのじゃなかっただろうか?  「どこへ行ったか解らない?」 「さぁ?」 「あぁ、等々寺に入っていくのを見かけたよ、それこそ、二日前に」  職人の男が口をはさんだ。 「二日前……それ以降小菊姐さんは帰ってきてないんだね?」 「そうねぇ。確かに見かけないわねぇ」 「あの人、夕餉の時間顔を見せないし、あまり会話に入ってこなかったし、気にしてなかったわねぇ」  詩乃はあいまいに相槌をして薬を売り終わって、等々寺経由で店に帰る。  等々寺は新しくできた寺で、どこかの藩元の殿様の菩提寺だという話だ。普段は門が硬く閉じていて、人の入出はないらしい。人通りもないひっそりとした寺だった。 「寺? てよりは、武家屋敷って感じだが、」  と思えるほどの建物だった。白い壁に囲まれ中が見えない。時々、お経のようなものが聞こえてくる以外の動きがない。  一人のおばさんが中に入っていく。聞けば、この寺に料理奉公をしているのだそうだ。小菊について聞いたみたが、 「この辺りは人通りのない場所だからね、見なかったねぇ。寺の中? 寺の中には、菩提様を守っている住職様と塩崎様と、あと数名の小僧さんだけですよ。もちろん、男ですよ。塩崎様? 大きな声では言えないけれどね、ここ、お取りつぶしにあった藩らしくってね、以前仕えていたんだって、今は寺守という感じでね、まぁ、買い物だとか、いろいろの雑務をしてるよ。もちろん、ちゃんとしたお方たちだよ。毎日四度お経を唱えてるんだからね」  と言った。  詩乃は暑くて、ぼうっとしている間にこんなところまで来てて、そしたらそこに寺があって知りたくなったと言ってその場を去った。  境内を出てすぐの川原の近くに芝居小屋があった。 「芝居小屋……、南蛮怪談……」  小屋では今芝居の最中なのだろう、呼び込みは団扇で扇いで涼を取っている。 「次は何時から?」 「今日はこれで終わりだ」 「そうなのかい? せっかくだからと思ったのに、明日は?」 「あしたは休みだ」 「そうなの? なんてついてないんだろう……。知り合いに聞いたんだよ、いい男がいるって、」 「あぁいるぜ。ほらそこに絵があるだろ?」 「……あらホント、いい男だねぇ」 「そうだろ、梅の介っていうんだ」 「へぇ、この紅はこの梅の介が使ってるものかい?」 「あぁ、紅のほかにおしろいもそうだぜ」  男はまずまずの値が張るが、男が使っても美人になる粉だ、安いもんだ。と言った。詩乃は首をすくめた。 「数珠、なんて物はないねぇ」 「数珠? おいおい、ここは芝居小屋だぜ、そんなものはほら、そこの寺にでも行って買いな、」 「あははは、いやだ、あたしったら。もう、恥ずかしい。暑いからねぇ。もう頭の中がごっちゃになってる。盆の支度とか、買い物のことを考えてて、もう、いやだねぇ。数珠なんて売ってるわけないのに」  詩乃はそそっかしい女風に大笑いをすると、男も、暑さでおかしくなるのは当然だと擁護してくれて、倒れる前に気を付けて帰んなと見送ってくれた。  詩乃はしばらく笑いながら歩き、角を曲がると真顔に顔を戻した。 ―あいつらはまるで知らないようだ―  呼び込みの男たちはこの町で調達したのだろう。詳しいことは分からず、まっとうな仕事をしているに過ぎないようだ。  それが証拠に、芝居小屋の中、建物の中に、座席とを仕切っている通路があったが、その通路から座席に入るところにかかっている暖簾から、あの大麻の甘くも臭いにおいがしたのだ。男たちはまるで気づかない。きっと、彼らは常習者ではないのだ。 「だけど、それが一緒とは限らない」  薬屋の庵付近で見つかったものと、あの暖簾に付着している匂いが同じものだとする証拠は、今の世の中にない。細胞レベルで同じであるなどどうやって証明できよう。ただし、この界隈で、今まで見たことがなく、もちろん、それ以外の場所で見ない大麻臭を十日と開けずに嗅ぐとは偶然だろうか? 無関係にしては、場所が近すぎる。  カラン、カラン、カラーン。詩乃が目を上げると、操り人形を操っている黒子がいた。その前には数名の子供たちが群がっている。  操り人形は生きているかのように踊る。浄瑠璃とも違うそれに大人たちさえも目を奪われる。  ふと、そこにいた全員の視界の背後で破裂音がした。全員が様々な振り向く。視界を戻せば操り人形師は姿を消していた。全員が顔を見合わせ不思議なことだとか、少々オカルトチックに寒気を感じながら解散した。  だが、黒子はその場で女の姿に変わっただけだった。前に垂らしていた黒布を後ろに撫で付け、ささっと着物の上を脱げば、腰巻を巻いた女の出来上がりだ。  だが、それを見ていたのは詩乃だけで、黒子も詩乃が近づいてきたのでこの格好に姿を変えたのだ。  破裂音は、黒子が素早く投げた爆竹が四方で鳴っただけだ。 「暑いですねぇ」  詩乃よりも背が高く、細く、色か漂う女はそう言って詩乃に近づいた。 「暑いねぇ」  二人は並んで六薬堂へと向かう。 「薬屋がね、いやなものが見つかったって、姐さんがひどく不愉快だって、聞いたもんだから」  詩乃が女を見上げる。 「なんです?」 「時々、いや、いつも、お前は何なんだと思う」  詩乃の言葉に女が笑う。「さてなんでしょ、あたしもよくわかりません」  詩乃は首をすくめ、「卯長屋のおまさって人を訪ねてくれるかい?」 「なぜです?」 「小菊姐さんが、大変なことだ。と言って二日前から長屋に帰ってない。そのおまささんたちに何があって、それを調べているようだから」 「わかりました」  女はそういうと、すすっと小道、人が一人は入れるかどうかの建物の隙間に入ったかと思ったら、急に若くて背の高い男が現れた。あれも、さっきの女も、同一人物だ。  詩乃は鼻で笑いながら六薬堂に戻ると、 「傀儡さんが来てましたよ」 「あぁ、さっき会ったよ。傀儡と呼ぶってことは、男の格好だったんだね?」 「私はあの人は嫌いです」  詩乃は笑った。「そりゃ番頭、あんたの顔が面白いのだもの。マリちゃん―女の格好の時の通称。マリオネットのマリちゃんらしい―の時の顔と、傀儡の時とで明らか違うからね。からかい甲斐があるってもんだよ」  番頭は詩乃に口を突き出して見せた。 「あ、雨」  番頭が片づけをして帰り、一人で夕餉―番頭が作ってくれたもの―を食べていると、南側の木戸を雨が打つ音がした。  夏の雨は粒が大きく、乾いた地面のにおいを巻き上げながらしっとりと落ちてくる。  詩乃は木戸を少しずらし風を入れる。  こんな雨降りの夜。誰も出歩かないだろう―誰も出歩かないということは、誰にも会わずに出かけられるということだ。悪いことをするには、こんなのような夜がいい― 「小菊姐さん、あんたどこへ行ったのさ?」  妙な胸騒ぎがして、そわそわする。
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