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逢魔《おうま》が時
さっきまで穏やかな春風が、軽快なワルツを舞い踊り、感嘆という名がふさわしい美しい景色が広がっていた、この場所。だが今は、オレンジを思わせる夕映えに、東の空から夜色が禍々しく侵食し始めていた。
逢魔が時。
昼と夜が交差する夕暮れ時には、人ではないものが現れるという。現世(この世)と常世(あの世)が通ずる時間帯。いつ怪奇、心霊現象が起きてもおかしくはない山道。
色濃く現れた空間の歪みに捕らえられ、完全に切り離された闇へ押しやられてしまう、孤独と恐怖が待ち受ける、おどろおどろしい霊界への口がバックリ開いていた。飲み込まれたら最期。最後ではなく、人の一生の終わり、死期の意味を表す最期。正常な世界へと二度と戻れないように、知らぬ間に漕ぎ出す死出の旅。
隣の山の背に、昼という象徴の太陽が、進軍してきた夜によって、威力を奪われたように追いやられてゆく。影は最高潮に長くなり、2つの急いでいるそれが、乾いた土の上へゆらゆらと伸びていた。身を切り裂くような風は、谷底へと誘いこむような纏わりつくような狂臭。
登山服を着て、前を歩いていた男が、少しだけ後ろへ振り返り、
「気をつけろよ」
「えぇ」
男のあとから恐々ついてくる女の眼下には、黒い海に見える雑木林がはるか下で、強風で大波のように荒れ狂い、死へと手招きしていた。
まるで地獄の血の池で溺死するような断崖絶壁。一歩一歩前へ足を踏み出すたび、山肌を石がコロコロと落ちてゆく、悲劇の前触れを示すように。
男と女はハイキングコースを、急ぎ足で下山しようとしていた。左手には薄闇と化してしまった林が広がり、少し前まで陽気な旋律を奏でていた鳥のさえずりも、不自然なほど身を潜めていて、反対側には転落防止の柵があった。
2人はそこからきちんと距離を取って、陽が完全に落ちてしまう前に、登山口へたどり着こうとしていた。ガラス細工のように美しい、白い花が根元から抜かれ、男の背負っているリュックのサイドポケットで囚われの身に。
落ちるはずのない歩き方。
風向きが右から左へ吹き抜けていたものが、見えない存在に操られたように、いきなり前方から後方へ地面を削り取るように、砂埃をともなって、2人の間を駆け抜けていった。
「っ!」
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