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イーリスは息を詰め、じっと足音に耳をそばだてた。鳥の声や風の音はもはや一切聞こえず、正体不明の足音と己の心臓の鼓動だけが鳴り響く。
体を起こして逃げるには遅すぎる──おそらく、絶対、あの足音以上の音をたててしまう。ここでじっと、死体のように、気配を消して動かないでいるほうがいい……気配を消すなど、そんなこと果たしてできるだろうか。
「何も恐れることはない」
男の声だった。ということは、水汲みにきた女官ではない。聞き覚えのある声だ。この声は、確か──
「我々にはサン・クレールがある。これさえあれば、全ては我々の思うように進んでいく」
ゆっくりとした、ねばつくようなしゃべり方、嗄れた声。間違いない、最高位の魔導師であるべリアルだ。
魔導師は王家や貴族とは違い、世襲制ではない。魔導師に志願した者たちはまず「アプレンティ」と呼ばれ、そのなかから適性のある一握りの者が「マージ」になり、その頂点に立つのが「プルミエ・マージ」である。
先代のプルミエ・マージはよりによってなぜべリアルのような男を選んだのだろうと、べリアルの姿を見るたびイーリスは眉を寄せる。嘘くさい予言、薄っぺらい説教、効いたか効いてないか判らないような"魔術"。何より、自分の地位を鼻にかける態度が目障りだ。
「我が魔導師よ。私に協力してくれるな?」
その言葉と同時に足音が止んだ。
こんな庭園の片隅で、一体誰と、何の話をしているのだろう。べリアルが話しているというだけで、悪だくみをしているとしか思えない。
見つかってはならないという恐怖よりも好奇心が勝り、イーリスは水色の瞳をぎょろりと声の方へ向けた。
淡いピンクと赤の、愛らしいカルミアの生垣によって、べリアルたちの姿は完全に遮られている。だが、裏を返せば、こちらの姿も向こうから見えていないということだ。
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