18人が本棚に入れています
本棚に追加
「ないな。地獄は嫌だからな。」
父は楽しそうに答える。真面目な父だから、きっとそういうことはなかったのだろう。父は我慢強く、寡黙で、そして母を愛していた。
「なあ、地獄ってあると思うか?」
父は少し身体を起き上がらせて言った。肋骨がくっきりと浮かび上がる。朝子の目を見た真剣な眼差しだった。
「あるわ。きっと、地獄も天国も。」
朝子ははっきりと嘘を吐いた。人類の使い古された便利な嘘だ。死に行く人間にとって、死後の世界の存在は何よりも信じたい嘘だ。それがたとえ地獄であっても、存在が全く消えてなくなる恐怖に比べれば、ずっと良い。
「やっぱり、浮気してた?」
朝子はバツの悪さを誤魔化すようにして言う。父はやはり真剣な顔をしている。深く窪んだ眼窟の底に、まだ輝きを失っていない瞳がある。
「してない。だけどもし、浮気したことがあっても墓場まで持ってくさ。それが正しい行いってものだろう。」
父はまた笑って言った。
「もし俺が地獄に落ちたら、浮気を隠し通したことが、俺の蜘蛛の糸になるかも知れないからな。」
それから間もなくして父は死んだ。
あっという間に灰になり、消えてなくなった。
日本の仏教様式に従って、49日目の法要が行われる。仏教によれば、この日、父は閻魔大王に裁きを受けるのだ。
父は真面目な人だったから、天国に行ったかも知れない。あるいは、浮気の咎で地獄に落ちたかもしれない。地獄に落ちても父は忍耐強く蜘蛛の糸を待つだろう。
線香の香りが朝子を包む。世界は優しい嘘で包まれていた。
了
最初のコメントを投稿しよう!