沈黙と花

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 レンタカーを借りて海岸線を走らせる。車を運転していると、タクシー会社に勤めていた時を思い出す。孝彦はその会社でも間違えたのだ。ある晩、泥酔し切った男が此方に向かって大仰な身振りで手を振っていた。その姿を見て、孝彦は乗せたくないな、と思った。そして、速度を上げて走り去った。泥酔男は何かを喚いていた。次の日、上司から呼び出された。君の車がお客さんを無視した、と苦情があったのだが、覚えはないかね。苦い顔をした上司が尋ねてくる。孝彦は沈黙した。その沈黙は思い当たらない事項を尋ねられて困惑している、と受け取られた。人々はいつでも最後には孝彦の沈黙を好意的に解釈した。彼は生まれながらの役者だった。寡黙で真面目な男であり、怠慢を働くはずのない人物だといつでも信じてもらえた。真面目な人間が失敗すると、叱責に労りが混ざる。孝彦は申し訳ない、と思う気持ちもありながら、死人が出たわけでもなし、と胸の内で呟く。人さえ殺さなければどんな間違いも許してもらえる。孝彦はそう考えていた。
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