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埠頭まで辿りついた。他の車も、船もないのをいいことに、孝彦は海に落ちるか落ちないかというぎりぎりのところで車を止めた。注意されれば、すみませんと言えばいい。眼前に広がる海を孝彦は眺める。車の中だというのに、波が足元をくぐっていくような感覚がした。波は今にも眠ってしまいそうなほど、とろりとさざめいている。今度は漁師でもいいかもしれない。あるいは、海鮮の缶詰工場でもいい。窓を開けると潮の香りが吹きこんできた。遠くからはたはたとかもめが一羽飛んできた。仲間とはぐれたのだろうか。かもめが長く鳴いた。彼女の声はかもめを思い出させるが、かもめの声は彼女に繋がっていなかった。あるいはもう、彼女とかもめの関連性は孝彦の中で失われてしまっているのかもしれない。
彼女について、孝彦は何を間違えたのだろうか。花の咲く彼女の体質をもっと心配するべきだったとか、心配してくれてありがとうと言うべきだったとか、オレンジは素直に食べずに譲るべきだったとか、脳裏を過る何もかもがくだらない理由に思えた。そんな理由で彼女は孝彦の前から姿を消したりしない。だが、正解をこれ以上考えるのは不毛だった。彼女は孝彦の間違いを許さなかった。誰も殺していないのに、と孝彦はぼんやりと思った。人の死だけは孝彦の中で絶対的な悪だった。死だけは、取り返しがつかない。かもめがまた鳴いた。ふと嫌な考えが頭をもたげる。もしも彼女が彼女自身を殺していたら。そうしたら孝彦は彼女を一生許せないだろう。彼女が孝彦を許さなかったように、孝彦も彼女を許さない。だが、仮定で他人を憎むような真似もしたくなかった。
さて、と孝彦は息を吐いた。窓から顔を出し、車のハンドルを握り、孝彦はペダルを踏んだ。車は前進した。シフトをバックに入れていないから当然だった。車は海へと飛び出した。前のめりに海面へ車は落下した。開けていた窓から海水が入り込んでくる。シートベルトを外そうとするが、海水がだくだくと流れ込んでくる勢いで手が届かない。水流は力強かった。孝彦は手を伸ばす。塩辛い海の水は温かく感じられた。この間違いをどうやって黙っていよう、と孝彦は考え始めていた。
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