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手を伸ばしても、その先に彼女はいなかった。洗いすぎたベッドシーツのごわごわとした感触だけがある。気だるく起き上がると、彼女はとうに身支度を整えて、朝食の準備をしていた。トーストと目玉焼き、野菜ジュースにデザートのオレンジ。こどもが家庭科の課題で用意したかような拙さと、手抜きを覚えた大人の妥協が見える献立だった。そもそも孝彦の家の冷蔵庫は食材が乏しかった。固い食パンをそのまま齧り、水で流しこむ事も少なくなかった彼としては、有り難い気遣いだった。
おはよう、と彼女が言った。彼女の声を聞くたび、孝彦はいつも海辺を飛ぶかもめを思い出した。太陽に照らされ、真っ白に輝きながら高く鳴くあの鳥。幼い頃、父親に連れられて行った港で、餌やりの時に偶然触れたかもめの翼は柔らかいのに固かった。その体躯は小さいように見えて、近づくと意外なほどに大きい。矛盾だらけの鳥。彼女はひどく猫背だった。縮こまるようにして俯きがちに歩くので、小柄に見える。けれど、背筋を伸ばせば一七〇センチに届くか、届かないかという身長だと理解できる。
おはよう、と孝彦は返した。ベッドから起き上がり、昨夜脱ぎ散らかしたままだった衣服を片づける。テーブルには一輪の花がある。葉も茎もなく、ただ花だけが延命処置を施されないままに置かれている。彼女と共に過ごした夜から目が覚めると、必ず花が現れる。種類は一定していない。今日は丸い花びらを五片つけた、淡い青色の花だった。花屋で買ってきた物ではない、と孝彦は思う。花の部分だけがむしり取られたようにあるからだ。彼女がわざわざ他人様の庭の花をもぎ取るような真似をするようにも見えない。乱暴な行いは、彼女には似合わなかった。
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