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孝彦と彼女が出会ったのは深夜のタクシーの中だった。孝彦は運転手、彼女は乗客だった。手を上げてタクシーを停めた彼女は、見るからにふらふらとしていた。行き先を尋ねても、呂律が回らないのか聞き取れない。どうしたものかと観察していると、その内ぐったりと首をうなだれ、意識がなくなってしまった。孝彦はそのまま近場の病院へ直行した。
彼女を抱きかかえて病院の受付に経緯を話すと、すぐに医師が対応してくれた。彼女からはアルコールの匂いがしなかった。飲み過ぎで倒れた訳でないとすれば、どんな理由が彼女にあったのだろうか。不思議に思いながら孝彦が立ち去ろうとすると、看護士の一人が話しかけてきた。
「あの女性、ちょっと持病があるみたいで……もし、出先で助けてくれた人がいたら連絡先を聞いて下さいって、保険証にメモが挟んであるんです。どうしますか?」
少し沈黙してから、孝彦は答えた。
「一応、書きます」
どれほど丁寧に書けども暴れ馬のようになってしまう自分の字を見れば、ある程度こちらの人となりは判るだろう。それを踏まえて連絡してくるかどうかは彼女次第で、それに期待するかどうかは自分次第だった。
後日、お礼がしたいと電話があり、孝彦と彼女は待ち合わせをした。神保町にある、さぼうるという喫茶店だった。入口のトーテムポールの洗礼を受けて店内に入ると、中は照明がぎりぎりまで絞られている。煙草の気配が染みついた店の奥のテーブルで、孝彦はブレンドコーヒーを、彼女はマンダリンジュースを頼んだ。オレンジの色鮮やかな山盛りのフロートが出てくると、彼女はびっくりしているようだった。普通のジュースを想像していたのかもしれない。そうして、恥ずかしそうに笑った。
「これじゃあ、休日のお出掛けにはしゃいだこどもですね」
孝彦もつられて笑った。笑う、という行為をしたのが久しぶりで、何だか余計におかしかった。彼女はひとしきり孝彦へ礼を言い、菓子折りの包みを差し出した。
「具合はもういいんで?」
「ええ、もうすっかり」
確かに、タクシーの車内で見た姿とは随分違う。猫背ではあるが言葉ははっきりとしていて、どこにも病の影は見当たらない。孝彦の戸惑いを察したのか、彼女は言った。
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