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「ナルコレプシー、という病気をご存知ですか?」
「突然、眠ってしまう?」
彼女は頷いた。言葉少なに告げられた説明は、興味深いものだった。普通ならば日中に起きるはずの発作で、あの日、運悪く帰宅の遅くなった深夜に兆候が現れ、そこに孝彦のタクシーが通りがかったらしい。
「良かったです。親切に助けてくださる方に会えて」
突発的に眠ると三〇分ほどで目が覚めるのだが、その意識を失っている間に「嫌な事」をする人も過去にはいたのだという。十代の頃から過眠の症状と共に生きてきた彼女は、既に一種の老成を瞳に宿していた。その瞳に、孝彦の姿が映っている。落ち着かない気持ちになって、孝彦はメニューをまた見た。
「腹、減りませんか」
二人でメニュー表を覗き込んで、バタートーストを頼んだ。
三年が経ち、今も孝彦たちはトーストを頬張っている。彼女は時折、メールで「会えますか」と連絡してくる。そして次の日の夜に、孝彦の部屋へやって来た。どこか他人行儀な言葉遣いが抜けないまま、ゆっくりとした時間の中を彼らは進んでいた。
「いつもある、これ」
そう言って、孝彦は青い花を指差した。
「どこから持ってきてるんだ」
彼女は少し困った顔をした。どう説明したらいいのか、その順序を脳内で組み立てている表情だった。つやつやとしたオレンジを手に取りながら、彼女は口を開いた。
「それはね、私から咲くの」
「咲く?」
彼女は背中まで伸ばしている黒髪を一撫でして、首筋を晒した。
「ここに痕があるでしょ」
孝彦はよく知っていた。彼女の右の首筋にある、人さし指と親指を丸めて作ったような、歪な丸をした痕である。火傷のようにも見えるが、何をすればそのような大きさの痕を作り出せるのかまるで判らない。ただ、彼女がその痕を隠すようにずっと髪を伸ばしていることは知っていた。
「この痕から、花が咲くの。あなたと寝た朝に」
そんなはずはない、と思いながら、彼女から花が咲くのは当たり前のようにも思えた。オレンジの果肉をむしりながら孝彦は尋ねる。
「それは、君の過眠症と関係あるのか」
「どうだろう」
彼女は首を傾げた。オレンジが一つ残った。どうぞ、と彼女が言う。孝彦は素直に手に取った。
「気分が悪くなったりとか、そういうのは全然ないの。心配しないで」
席を立ち、彼女は半分こ、と囁いて孝彦にキスをした。
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