沈黙と花

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 彼女はその日、孝彦の家に滞在した。朝から真夜中の二時になるまでは、確かに孝彦の腕の中に彼女はいた。  しかし翌朝目覚めると、孝彦が抱いていたのは紫苑の花束だった。彼女の姿はなく、トーストの香ばしい香りもなかった。いつもは花が一輪だけ姿を現していた。ところが今は、孝彦の腕いっぱいに抱えるほどの紫苑が現れていた。彼女の全てが花に変わってしまったのだろうか。いや、単純な悪戯に違いない。孝彦の心臓は落ち着かない様子で強く脈打っている。彼女の存在を確認できる物を探す。だが、彼女はあり合わせのマグカップを使っていたし、着替えも、化粧道具も、歯磨きセットも持って部屋を訪ねる女だった。彼女の準備はいつも万全だった。なら、消えてしまう時も万全を期しているのかもしれない。床に彼女の長い黒髪が落ちていないかと目を細める。木目の傷だけがはっきりと見えて、探し出すのは困難に思われた。何か用事があって早めに帰ったのか。その用件が急ぎで、メモ一つ残せなかったのではないか。  だが、この紫苑の花束はなんなのだ。孝彦は呆然と花束を抱きしめていた。やがてそっとベッドに花束を寝かせた。電話をしてみようと携帯のアドレス帳を開く。彼女の番号が消えている。メールボックスを開く。決して多くはないが積もり積もった三年間の彼女とのやり取りが、消えている。  孝彦は顔を洗い、髭を剃り、着替えた。暫く伸ばしっぱなしだった髭を剃ると、孝彦の顔は十歳ほど若返ったように見えた。彼女に出会う遥か前、社会人になりたての青年のようだった。失敗した、と孝彦は思った。これから行く場所で不審者と勘違いされないために髭を剃ったのだが、これでは社会的立場を伴わない人間に見られかねない。こうなればタクシー会社を辞めてからご無沙汰だった背広を引っ張り出していくしかない。だが孝彦には元々社会的立場というものが与えられていた時期など記憶になかった。仕事をしていなかった時期は特にない。転々としながらも、食い扶持は自力で稼いでいた。けれど、立場を伴う何者かになったことはなかった。
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