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彼女がいなくなった次の日、孝彦の新しい仕事が始まった。点々と明かりがあるだけの地下鉄を歩くと、僅かな足音でもよく反響した。線路に異物がないか、レールの高さが合っているのか、歪んでいないか、傷がついていないか、枕木が腐食していないか。調べる項目は意外にもたくさんあった。鉄道会社の社員が日中に歩いて異常ありと目測を立てた地点を、夜番の社員の指示に従って孝彦が修繕道具を担ぎながら歩く。線路を真夜中に散歩するぐらいのものだろうと思っていた孝彦は、幾度か気の抜けた態度をどやされた。数日後には業務に励む真面目な顔つきを習得し、その表情を浮かべている内に自然と仕事に身が入るようになった。線路の点検は時間との勝負でもある。電車の運行時間は変更できない。終わらなかったので、まだ未点検ですが走ってくださいとは決してならないのだ。
どの検査も物珍しかったが、レールの高さを専用の器具で計測し、ミリ単位で調整するのはやりすぎじゃないかと孝彦は思った。だが、ベテランの社員が言うには、この一ミリの差で電車が揺れるらしい。よく考えてみれば、僅かな傾斜をつけた台に重いボウリングの玉を置いたらすぐに転がって落ちてしまう。重さは常に下方へ流れていく。そういうものか、と孝彦は三日ほど考えてから納得した。打音検査というものもある。じっくりとレールを観察して怪しい箇所を探り、疑惑が深まるとハンマーで線路を叩き、その音の響きでレールの傷の具合を判別する方法だった。甲高い金属音が真っ直ぐに孝彦の耳を通り、トンネル内に跳ね返り、空間に溶けていく。この調査は熟練した社員が行っており、孝彦はそれにつき従って修繕作業を行うだけだった。
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