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ある日、打音検査をしていると、違和感を覚える音があった。いつもならば社員が場所をメモし、具体的な調査を始めるはずだった。しかし白髪の混じった頭をした社員はやや首を傾げて立ち上がり、そのまま直進しようとした。
「あの」
確信はなかったが、気づいたものを見逃すのが気持ち悪く感じられ、孝彦は言った。
「今叩いた所、変な音がしたように思います」
社員が孝彦の方へ振り返った。今まで返事以外は作業中に発言しなかった孝彦の言葉に、戸惑っているようだった。だが、恐らくその社員の心中にも引っ掛かるものがあったのだろう。社員はハンマーを打ち鳴らした。そして少し離れた場所をもう一度打ち鳴らした。やはり孝彦には違う音に聞こえた。社員もそう思ったらしい。ゆっくりと社員は頷いた。孝彦も頷いた。それから、孝彦は打音検査について詳しく学ぶ機会を与えられた。
正常な音と異常な音と、何が違うのか。孝彦は上手く説明できなかった。ただ、音を聞けば「これはまずい」と判るのだ。小さな頃から孝彦は音を聞くと、その音を触っているような不思議な感覚がした。判りやすいのが人の声だった。聞くだけでちくちくと手を刺す声、桃を撫でているような感触の声、かもめの羽毛を思い出す声。出会った声は孝彦の耳と掌に触れ、記憶に刻まれていく。
打音検査の異常音を聞くと、はっきりと亀裂に触れることができる。その亀裂の深さまでをも孝彦は言い当てられた。人間モニターと冗談交じりに笑われながらも、孝彦は現場で重宝されるようになった。
その晩、孝彦はいつものように線路の保守点検をしていた。半蔵門線を歩くスケジュールだった。目視を淡々と続け、次ぎ目の部分を念入りに観察する。ふと、傷のようなものを見つけ、孝彦はハンマーを打ち鳴らす。その瞬間に、女の声がした。かもめを思い出す、懐かしい声だった。孝彦は顔を上げた。作業員のライトが暗闇の中を行き交っている。その人影の中に彼女がいるはずもない。だが目の前で声がする。何もいないのに、彼女の声がしている。何を言っているのか、孝彦は聞き取れなかった。一歩、二歩、と前に進み、手を伸ばす。手を伸ばしても、その先に彼女はいなかった。空白が、ついに永遠となったのを孝彦は感じた。先輩社員から叱責が飛んでくる。孝彦はぼそぼそと謝罪を口にし、作業に戻った。
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