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食事の後片付けは僕の役目だ。フライパンをスポンジで磨いていると、父さんが洗い終わった箸やグラスを拭き上げてくれた。
「母さんの元気な時間も限られてる。試合はなるだけ早くしよう」
父さんは僕の二の腕を握って太さを確かめる。
「一か月とちょいでなんとか体を作って、技覚えろ」
「教えてくれるの?」
父さんは腕組みをして唸っている。その腕の太いこと。
「チャーハンやフランソワに頼もう」
もう。夫婦そろって、わけわかんないこと言わないでよ。
その場で十分な説明もなく、父さんは電話を始めた。リビングの隅っこで、ぼそぼそとしゃべりながら、お辞儀なのだろうか、電話の向こうの相手に頭を何度も下げていた。
ベットで横になってようやく落ち着いて考えることができた。
母さんが病気と闘い始めたのは僕が高校に進学した直後だ。いつかはこんな日が来るとわかっていた。時間をかけて自分なりに納得もした。
結局、一年ほどの猶予期間だった。
病気のことを調べ尽くした母さんが結論を出すのは一瞬で、聞いている僕や父さんが、耳をふさぎたくなるほどに命を短く予想した。
自分の命を冷静に読み切ったのは、大学で教えるほどに数学が得意なことも、どこか関係している気がする。
母さんは以前から言っていた通りにするんだろうな。
主治医から残りの時間を告げられたら、仕事は辞める。積極的な治療はしない。自然に任せて人生を終える。
よくよく考えれば、理解もできる。
だけど、母さんみたいに、スパンと割って実行できる人なんてそうそういないよ。
決めていたことをただするだけ。さっきはそんな気軽さすら感じられた。
母さんのことから、頭のすみっこに引っかかっていたことへと考えが移っていったのは、現実逃避なんだろう。
しかし、こっちはこっちで逃げ出したくなる代物だ。
父さんとのプロレス。
そりゃあ小さいころはプロレスごっこで遊んでもらったし、母さんと一緒にリングで戦う父さんを観にも行った。
もう何年、観てないかな。五年? 六年? 最後に行ったのっていつだっけ?
ああ、中学受験で忙しくなってからかな。てことは、五年生かな、父さんの晴れ姿を目にした最後は。
でもまさか自分がリングに上がるとはなあ。
ショックで眠れないと思ったのに、気がついたら目覚まし時計がじゃんじゃん鳴っていた。雪女に息を吹きかけられたのか、すとんと寝入っていたらしい。
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