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「すみません」
半分予期していたが本当に接触してくるとは思わなくて、私は振り向きながら眉毛を上げた。
まだ毛量の多い髪は額を流れるように梳かしてある。少しはにかんだ笑みを浮かべて目尻にシワが寄っている。浅黒い頬は古びた脂肪が萎びていた。中肉中背という言葉がぴったりくる男だ。
目が合うと、男はすかさず言った。「メシ、行きません?」
私は呆れた。棚に目を戻しながら、小刻みに顔を横に振った。
「だめ?」
尚も私は首を振った。決して顔を向けないようにしていると、男は後ずさりしながら遠ざかった。
自分の身に起こるとは思っていなかった出来事に、息が乱れて胸が波打った。
数十分も前からいた人物が、今までの間ずっと自分に目をつけて行動していたと思うと、全身の毛が逆立った。
男が離れていったあと、店内を十分歩き回って、いないことを確認した。
少し安心して買い物を続けながらも、疑問がドライアイスのように湧いてきた。
なぜ、私だったのか。ああいう人は、普段から誰彼なく声をかけているんだろうか。
声をかけたところで、「メシ行きません?」なんて陳腐なセリフで「行く行くー」と返事をする人がいるとでも思っているのだろうか?
私に勝算があるように見えたとしたら、その程度の手頃な女に見えたということだ。
そこまで考えて、やり場のない憤りが何から来ているのかに気づいた。
何食わぬ顔でレジを済ませているときも、店員さんに「不審者につけられたんですけど」と文句を言おうかと一瞬考えたほどだ。
でも、なぜ?何が男をそうさせたのだろう。
見知らぬ女性を食事に誘うというアクションを起こすにはそれに見合ったエネルギーをもつ動機が必要なはずだ。
何が男をそうさせたのだろう。
というか、仕事は?
平日の夜に赤のマウンテンパーカなんて着て、昼間は何をしていたの?
疑問が滝のように降りかかる。
スーパーを出ようとして、自動ドアが開いたとき、明るい店内と夜の帳との境に、赤いマウンテンパーカを見つけてしまった。
さっきまでの怒りはもう無かった。私は男の生態を知りたいという思いにかられた。
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