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父のセリフを思い出し、小春は身震いした。連れていってあげるとか、してやってもいいとか、そういうレベルではない。現状認識のずれがはなはだしい。
そこで小春は考えたのだ。一緒に旅行に行って非日常感を味わえば、ふたりの関係も変わるかもしれない。少なくとも思いつめている母の気持ちは晴れるかもしれない。
父とふたり旅行なら乗ってこない母も、普段はほとんど連絡を寄こさない兄が参加する家族旅行となればその気になるだろう、という小春の読みは当たった。
現在三十七歳の兄は、独身で、音楽を生業にしている。といっても、楽器を演奏するわけでも歌を歌うわけでもない。一人暮らしの部屋にこもってパソコンを一日中いじっている。楽曲提供という仕事らしいが、そんな兄の生活は家族の誰も理解できない。
「どうして突然家族旅行なんてする気になったのかしら?」
首をかしげる母に、
「インドが恋しくなったんじゃないの?」
と、小春はとぼけた。
「夏夫が行くならお母さんも行くわ」
というわけで、無事、家族四人のインド旅行が実現したのだった。
朝日が昇り始め、ガンジス川がほのかに赤く染まっていく中、小春はボートのふちにもたれて、朝日に照らされた兄と父と母の顔を眺めていた。こんなふうに四人がそろって一緒にいるのは、何年ぶりだろうか。
五年前、小春は結婚式を挙げた。そういう場は苦手だと言っていたから来ないだろうとあきらめていた兄は、式が終わったあとにひょこっと現れ、おめでとうと小春に声をかけてくれた。だが、披露宴会場には兄の姿はなかった。兄が来たことを知っているのは小春だけだった。
兄が家族を避けるのは父のせいだった。会社人間の父から見たら、根無し草のような兄の生き方は理解できないのだろう。父は兄の顔を見るとすぐに説教を始める。頭ごなしにダメなやつだと決めつけるから、必ず衝突する。兄は実家に滅多に帰ってこなくなった。
(十五年前だ……)
指折り数えて、小春はため息をついた。あれは、兄の就職が決まったときのことだ。兄が二十二歳で、七つ離れた小春はまだ十五歳の中学生だった。一家でカニのフルコースを食べて兄の就職お祝いをした。その半年後に兄は会社をやめて、インドに旅立った。
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