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「俺、前にインド来たとき、ガンジス川で泳いだよ」
と、夏夫が言った。
「嘘。日本人が入ったらおなか壊すってガイドブックに書いてあったわよ」
母が言った。
「俺はそんなに軟弱じゃないって思ってたんだけど。でも見事、おなか壊した。それどころか熱まで出て大変だった。死ぬかと思った。三日も寝こんだ」
「三日で治ったんだから丈夫なほうじゃないか? 下手したら入院沙汰になるらしいからな」
と、父が笑った。小春は目の前で起こっている光景が信じられなくて、会話の輪に入れなかった。家族団らんしているなんて、夢みたいだった。母と父はいがみあってないし、兄は家族を避けていない。来てよかった、と小春は心から思った。
色とりどりのサリーが風にはためいている。野菜を売ってる屋台が並び、自転車のタクシーが道を走り、クラクションが鳴り響く中、大きな牛がのそのそと歩いている。
ヒンズー教の聖地であるここバラナシは、地元の信者だけでなく、世界中から観光客が訪れる。観光客が集まれば商人も寄ってくる。人の熱気と文化がぶつかりあい、カオス状態になっている。夏夫いわく、インドの中のインド、それがバラナシだった。
小春は兄の背中にくっつくようにして恐る恐る歩いていくが、母はサリーを見比べながら、店員に片言の英語で値下げ交渉までしている。
「いらないと言ってるだろう」
怒鳴り声が聞こえて振り返ると、父がしつこい物売りにからまれているようだった。小春が動くよりも前に、兄が動いていた。父と物売りの間に入って、穏やかな様子で二言三言交わすと、物売りはあっさりと去っていった。憮然とした顔の父に、兄は小さな素焼きのカップを手渡した。小春と母にも渡してくれる。中にはチャイが入っていた。甘い優しい味が体に染みわたる。いつの間に買ったのだろう。インドにいると兄が気が利く男に見えてくる。
「なんて言ったの?」と、小春は兄に聞いてみた。
「俺の獲物だから手を出すなって言ったんだ。あの人、いかにもカモっぽいから、そうでも言わないと納得してくれないと思って」
確かに……と思いながら、小春は父をまじまじと眺める。真新しいポロシャツに、きっちりと撫でつけられた白髪と、しわひとつないズボン。インド旅行というより、会社の接待ゴルフに出かけるような格好だった。
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