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ホテルの部屋割りは、母と小春、父と兄という組み合わせで落ち着いていた。母が最初に確固たる口調で「小春はこっち」と呼び寄せたからだ。父を避けてわざとそうしたのか、単に何も考えず男女別に分けたのか、小春には母の真意は分からなかった。
広々としたベッドに寝転んで目をつむる。ディナーのときに見た民族舞踊の音楽が頭の中に残っている。色とりどりの衣装で舞い踊る女性たち。スパイスを使ったたくさんの料理と、おいしいお酒。今日見た建物の数々。丸い屋根を持つ白亜のタージマハル。赤砂岩で作られた赤い壮大な城壁。物売りの喧騒。たくさんの人々。
その中を父や母や兄の声が割り込んでくる。友達と海外旅行したことはあった。夫とも新婚旅行でヨーロッパに行った。でも家族の旅行はそれとは違う。ひとことで言えば、気楽だった。もう三十歳だというのに、母や父や兄の前ではただの小さな妹になってしまう。
鏡の前で顔にクリームを塗っている母の後姿に小春は話しかける。
「ねえ、お母さん。家族で旅行も、たまにはいいね」
「そうね。最後だと思うと、寛大な気持ちになって、イライラしたりしないしね」
「最後……?」
硬直した小春に向き直って、母は真面目な顔で言った。
「この旅行が終わったら、お父さんに離婚のことを言うつもり。だから、最後の家族旅行」
母の決心は固いようだ。小春は何も言えなかった。
「小春、見ろ見ろ。象だ、象。あんなにたくさん」
興奮してばしばしと肩をたたいてくる手を振り払って、
「ちょっとはしゃがないでよ、大の大人がみっともない」
と、小春は夏夫をにらみつける。今後の作戦を練るつもりで夏夫の横を歩き、昨夜の母の話をしていたのに、パオーンという鳴き声が聞こえたとたん、夏夫の意識は全部象にさらわれてしまった。
「ちょっと、俺、先行っていい? 近くで見てくるから」
子供のように走り出した兄にあきれて、「何あれ」と小春はつぶやいた。
「ああ、小春はちっちゃかったから覚えてないか。夏夫は昔から象が大好きでね。動物園に連れて行っても、象ばっかり。門をくぐったらすぐに象のとこまで走っていって、そこからずっと動かなかったんだ」
しみじみと父がいった。昔のままね……と母が懐かしそうに笑う。ふたりの目には三十七歳のおっさんが、小学生の息子に見えているのだろう。
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