第一章

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「いやあ、すまないすまない」  隅の長椅子に足を投げ出している男がいた。顔は馬喰の位置から死角になっている。 「あんた、馬超、いや馬喰さんだよなあ。猛将馬喰といやあ、遠在諸国知らぬ者はいねえ」  馬喰は幾多の戦陣に赴き、輝かしい武功を挙げている。隆々たる筋骨は戦の為にあると云ってもいい。 「だから何だ」  馬喰は男を睥睨した。 「こんなところで、有名人に会えるなんて、ついてるなあ」  男は、むくっと起き上がった。ようやく顔が見えた。  目元は切れ長で鼻筋が通っている。唇は薄い。顔の輪郭も細い。好い男である。 「俺は利周」にやりと微笑った。底を感じさせない不気味な笑みであると、馬喰は感じた。  利周は「おい、姉ちゃん、酒じゃんじゃん持って来い」と、右手で仰ぎながら、鄭淑を呼んだ。  見れば、利周の卓の周りは徳利で埋もれていた。 「あの人、朝からずっといるのよ」  鄭淑は、馬喰にこっそり耳打ちした。 「何やってんだ。は、や、く、さ、け」  利周は歌うように、節をつけて云った。 「あんたとは大違いね」  鄭淑はそう云って、裏に酒を取りに行った。 「な」  馬喰は、鄭淑の姿を目で追ったが、既に裏に引っ込んだ。馬喰は、その柄に似合わず、実は下戸なのである。
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