特になし

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 強くなりたい、と僕は思う。ゲームをやる人だったら誰でも思うだろう。  ボビー・フィッシャーが残した棋譜を眺めて僕はそんな当たり前の事を考えている。1956年、対ドナルド・バーン戦。彼のチェス界における特異性、異常性が存分に滲み出ている棋譜だ。13歳にして、彼は天才と呼ばれるにふさわしい対局をしている。わざとクイーンを捨て、勝利をもぎ取る凶悪さ、美しさ。  ボビー・フィッシャーは天才的なチェスプレイヤーだった。序盤のバリエーションこそ多くないものの、彼は彼が使用するオープニングバリエーションについて完全に理解していた。白番の時は彼は常に1.e4を、一方黒番では1.e4を指す相手に対しては、シシリアンディフェンス・ナイドロフヴァリエーションを、1.d4に対しては多くの場合キングズインディアンを用いて対抗した。想定しなければならない定跡の数は少ない。しかし、彼はその少ない定跡を完全に把握し、掌握し、統制していた。実際に彼の勝率は黒番・白番ともに非常に高かった。  彼はオープニングだけでなく、エンドゲーム(終盤戦)においても優れた技術を持っていた。特に、彼のビショップエンディングの技術には息を呑まざるを得ない 。その冷たさや。オープニングがチェスの創造性と芸術性を司るならば、エンドゲームが司るのはチェスの精密性だ。あらゆる手を比較検討し、最適解を導き出す。一手のミスが全てを壊し、ひっくり返す状況で、最適解を導きだし続ける苦行こそがエンドゲームである。1970年、1971年、対マルク・タイマノフ。フィッシャーのエンドゲームの技術の素晴らしさが伝わる戦いである。  彼は何故ここまで強くなれたのだろう。僕は何故彼ほど強くなれないのだろう。
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