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赤ん坊だって、もうほしいとも思わない。あのちっちゃな命はいつも、あたしが「せめてあんたと生きていきたい」と願うたびに、勝手にこの腹の中で死んでいくんだ。
あたしがほしいのは、ちっぽけな幸せだった。
美智子は夫と離婚し、父の元に戻った。二十六の冬だった。父は優しかった。自分の言うとおりだっただろうなどと勝ち誇ることもなく、ただ美智子をいたわった。
中谷姓から離れていた数年間の記憶は、泥沼のようなものだ。濁った水底は異臭を放っている。手のひらにすくい取れば、形のない泥水はどろどろとこぼれ、しかしすっかり落ちてしまうこともない。いつまでもまとわりついて離れない。
そうか。今年で、ちょうど三十年だ。
ふと美智子は、この店が今、創業何年になるのか気になった。今日、店が引けたら、押し入れの中の父の遺品を調べてみようか。
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