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「来年が創業五十年になるらしいの。ちっとも知らなかったわ」
翌日の仕事中に、美智子は華に言った。華は、暇つぶしの拭き掃除を中断する。
「もうすぐ五十年ですか。すごいですね」
華はわずかに目を見張り、わずかに眉を持ち上げた。観察力のない人間ならば、華の表情の変化を見落とし、冷たく話をあしらわれたように誤解するだろう。
美智子は、四十九年というこの店の歴史に、言いようのない据わりの悪さを覚えていた。
「あたし、今、五十六だけどね。あたしはパン屋の娘として生まれ育ったつもりでいたの。
でも実際はね、あたしが三つになるまで父は印刷工場で働いてて、それからパン屋に勤め始めて、あたしが七つになったころにようやく自分の店を持ったらしいのよ」
小学校に上がる前のことは、美智子は何一つ覚えていない。上がってからも、部分的に記憶が抜け落ちている。美智子が低学年のころまでは屑のような女が同じ家で生活していたはずだが、その女が存在した場面の記憶が、美智子には一切ないのだ。
覚えてなくて幸いよ、と父方の祖母は、かつて十代半ばの美智子に言った。
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