バゲット慕情

19/35
前へ
/35ページ
次へ
 美智子の部屋にテレビはない。本や雑誌も、一冊もない。低俗な娯楽に目を向けるような暇人ではないし、世間の出来事を知るには、レインレインで購読している新聞と割烹で漏れ聞こえる他の客のおしゃべりだけで十分だ。 *** 「て、店長、あの……ノート、どうも、ありがとうございました」  二月二十八日の午後二時半だ。これから華のバゲットを作り始めようという園田が、美智子に、父のタイガーノートを返した。 「けっこう役に立つでしょ、これ。コピーはとったの?」 「あ、いえ、はい……」  どっちなのよ。美智子は呆れ、聞き流した。どうでもいいところまで突っついているのでは、園田の雇い主は務まらない。  重く湿った曇り空が、朝からずっと続いている。こんな陰気な日には、喫茶店へ出向いてみようという気も失せるらしい。今日はまた一段と客が少ない。  小麦粉がパンになるまでには、五時間や六時間、種類によってはそれ以上の暇がかかる。  園田の毎朝の業務開始は五時半だが、その時点からすべての作業を始めていては、商品の完成が開店に間に合わない。したがって、午前中に焼き上げるべきパンは、前日から仕込んでおく。  パン製造は、計量とミキシングに始まり、生地をこねる、一次発酵をする、生地を分割して丸める、ベンチタイムをとる、成形する、最終発酵をする、焼く、という過程を経るのが一般的だ。     
/35ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加