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レインレインのオーブンは、もちろんバゲットの焼成に十分な奥行きがあるが、園田には一度も作らせたことがなかった。彼が毎日焼いているフランスパンは、バゲットより小型のフィセルとベーコンエピだ。
美智子は、園田に一冊の古いノートを貸した。美智子の父が遺したレシピだ。父の当時に店頭で販売していたパンの焼き方が、一つ残らず記録されている。
「昔は、うちでもバゲットを焼いていたのよ。あたしと父が二人で店を切り盛りしていたころはね。売れ残ることも多かったけど、父はバゲットを焼くのが好きだったの。質素なパンほど職人の腕が試されるんだって。
あの時分とはオーブンが違うけど、工房の環境そのものは同じだし、このノートのレシピが参考になるんじゃないかしら」
分厚いノートの表紙には、太いサインペンで、タイガーノートと記されている。虎の巻をもじったのだろう。子どもじみた嗜好が、いかにも父らしい。
「なんなら、コピーでもしちゃいなさい。まあ、今の時代、ご親切なインターネットとやらがあるから、パンのレシピなんて、いくらでも手に入るんでしょうけど」
はあ、いえ、でも、自分は。下手な言葉で会話をつなげようとする園田の、もっさりとして時代遅れなところが、美智子にとって気楽である。
美智子はインターネットを知らない。携帯電話も持たない。通信手段は、店と家の固定電話で十分だ。
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